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第3話 終わりは始まり

1.



 窓の外にそぼ降る雨を、ロイドはぼんやり見つめていた。今日は気が付けば頭が過去へと飛んでいる。それほどユイに会いたい気持ちが募っているという事なのだろうか。
(我ながら重症だな)
 出会った三ヶ月前には、これほどユイに惚れるとは思ってもみなかった。
 女の守備範囲はかなり広いので、ユイは一応守備範囲内にはあった。だが、ど真ん中からはかなり外れている。
 にもかかわらず、今はもうユイ以外の女はいらないと思えるほど、ユイを愛している。
 ユイの何がそうさせたのか、考えてみてもよく分からない。
 予想外の反応を返すおもしろさも、あの甘い唇も、心安らぐ温もりも、全てはきっかけにしか過ぎない。美味い茶やお菓子も、仕事の邪魔をしないというのも、ポイントは高いが、強がりで頑固でニブイところも、全てひっくるめてユイが好きだ。
 これほどユイの事ばかり考えていては、今日はもう仕事にならないだろう。
 ロイドはユイがニッポンに帰ってから二ヶ月、ずっと休みなく夜中まで働いていた。今日一日ぐらいぼんやり過ごしてもかまわないだろう。
 そう考えて、仕事をする事を諦め、ロイドは椅子の背にもたれ、再びぼんやり窓の外を眺めた。
 すると、机の上の電話が静かな研究室に、呼び出し音を鳴り響かせた。液晶画面に表示された相手先を見て、ロイドは思わず眉を寄せる。
 相手先は、科学技術局局長室だ。相手は容易に想像がつく。
 渋々応答ボタンを押すと、画面には科学技術局副局長フェティ=クリネの顔が映し出された。
 フェティはロイドの顔を見るなり、不愉快そうに眉をひそめる。
「私の顔を見るなり、嫌そうな顔をしないで下さい」
 それはお互い様だろう、などと言おうものなら、三倍返しに合いそうなので黙っておく。
 女の守備範囲が広いロイドでも、苦手な女はいる。フェティがその一人だ。
 ロイドより三歳前後年下のフェティは、煌めく美しいブロンドに澄んだブルーの瞳を持つ整った顔立ちで、ユイより大分背は低いが、きめ細かな肌と抜群のプロポーションを誇る。
 見た目だけならフェティは、ど真ん中の女なのだが、生真面目で冗談が通じない。一度下ネタの冗談を言ったら、思い切り嫌悪感を露わにし、局長がそんな下品な事では困ると、延々二十分くらい説教された。
 下手に頭が切れるので、口で彼女に勝てる気がしない。
 そんな彼女に、恋人がいるという噂を耳にした事がある。いったいどんな手を使って、この難しい女を落としたのか、教えを請いたいと真剣に思ったものだ。
 女としては苦手だが、仕事の上ではフェティほど頼れる者は局内にいない。
 生真面目なフェティは責任感も強く、統率力もあるので、安心して留守を任せられる。あまりに安心して任せすぎるので、度々説教を食らうのだが。
 局長としてのロイドの仕事は、大半が事務処理だ。局員の研究開発の計画書や報告書に目を通して、承認の可否を行う。
 書類に目を通すだけなら、王宮の研究室からでも行える。科学技術局のホストコンピュータにある電子データを参照する事も出来るからだ。
 しかし承認には直筆の署名が必要なので、科学技術局まで行かなければならない。
 局内では毎日次々に研究開発が行われているので、ちょっと油断するとすぐに書類は山のようにたまる。
 ユイがいた一ヶ月の間にたまった書類は、膨大な量になった。途中に一度逆転送のテストで行った時、急ぎのものだけ片付けたが、ユイが帰った後、全部片付けるのに一週間はかかった。
 ロイドはフェティを見据えて、言われる前に牽制する。
「たまってる仕事なら、昨日片付けただろう。今日は雨だから行かないぞ」
 フェティは形のいい眉をつり上げて、ロイドを睨み返した。
「毎日片付けるのが筋だと思いますが、今日の用事は違います。子供のような駄々を捏ねないで下さい」
 やはり倍返しになってしまった。ロイドは目を伏せて大きくため息をつく。
「フェティ、あまり怒ってばかりいると、美人が台無しだぞ」
「ふざけないで下さい」
「ふざけてない。用件はなんだ」
 つり上げた眉を元に戻し、フェティは機械的に告げる。
「ランシュ=バージュが入院しました。場所はラフルールの中央病院です。その内、集中治療室に入ると思うので、お見舞いに行かれるなら早いほうがいいかと思って、取り急ぎご報告申し上げます」
 ロイドは口元に、皮肉な笑みを浮かべた。
「オレが見舞いに行ったら、病状が悪化するんじゃないか?」
「では、私が行けば危篤状態に陥るかもしれませんね」
 無表情のまま涼しい顔で言うフェティを見つめて、ロイドは少し目を見張る。
 彼女が冗談のような事を言うのを、初めて聞いた。
 ロイドは見た事もないが、恋人の前では彼女も笑顔を見せたりするのだろう。これほどの美女だ。笑顔は輝くほど美しいに違いない。
 想像すると、ほんの少しだけ苦手意識が和らいだ。
 ロイドは少し笑ってフェティに告げる。
「わかった。近いうちに会いに行ってみる。知らせてくれてありがとう」
 ロイドが彼女に笑顔を向ける事も珍しいので、フェティは少し面食らったような表情で「失礼します」と言い、電話を切った。
 電話を終えてすぐに、ロイドはメインコンピュータを落とした。窓の戸締まりを確認し、研究室のセキュリティを外出モードに切り替える。これでロイド以外の人間は、誰も出入りできなくなる。
 どうせ今日は、もう仕事をする気はない。
 研究室に施錠して、ロイドは自室に戻った。
 雨の日に仕事に出かけるのは億劫だが、仕事をしない代わりに、ランシュの見舞いに行ってみようと思った。
 白衣を着て病院内をうろついていると、医者に間違われるので、ロイドは白衣を脱いで、代わりにジャケットを羽織る。
 ラクロット氏に外出する旨を伝え、傘を持って部屋を出た。
 外に出ると、先ほどに比べて、雨は随分弱くなっていた。霧のように細かい雨が、音もなく静かに降りしきる。
 ロイドは王宮の広い敷地を抜けて、正門をくぐり、ラフルールの中央病院を目指して、坂道を下り始めた。
 静かな霧雨の中を黙々と歩いていると、頭の中はまたしても、ユイのいた過去へと遡っていった。



 画面の真ん中に、エラー表示のウインドウが点滅している。ロイドはコントロールパネルの上で拳を握り、ガックリと項垂れた。
「くそっ……! また終了サインが出なかった」
 これで二回、異世界検索に失敗している。残る時間は百二十秒だ。
 あの日からユイは、あまり元気がない。ロイドが発した言葉は、ユイの想いを拒絶した事になるのだから、当然と言えば当然だ。
 ユイはこれまでと変わりなく、決まった時間に茶を淹れ、夕食時まで研究室にいるが、口数が少なく、ろくに話もしていなかった。
 ユイが仕事の邪魔をしない事を利用して、ロイドは忙しく働き続け、話す機会を与えなかった。
 実際に時間もないし、忙しいのだから仕方ない。これは自分の心ない態度への言い訳だ。
 それでユイに嫌われてしまうなら、その方がいい。連れて逃げて、不幸にしてしまうくらいなら。
 広域人物捜索装置の逆転送機能は、昨日完成した。ユイと共にニッポンに逃げるという手もある。
 チラリとそういう考えが、頭をよぎった。クランベール内では、どうしても生きていく事すら出来ない。けれど、どこへ逃げても、ローザンに迷惑がかかる事に変わりはない。
 打ち明ければ、彼はきっと笑顔で協力してくれそうな気がする。だからこそ、巻き込むわけにはいかないのだ。
 人のいいローザンは、他にも手伝える事があるなら、時間を延長してでも手伝うと申し出てくれた。遺跡の同期に合わせたシフト勤務も、しなくていいと言われたが、そこまで甘えるわけにもいかない。元々ローザンには何の関係もない仕事なのだ。
 それにローザンがいない間、彼の分まで働いて忙しくしている方が、ユイの事を考えなくて済む。
 ローザンと一緒に検索結果の検証をしていると、向こうからユイが呼んだ。
「ロイド、ローザン、お茶入ったよ」
 ロイドはローザンと共に振り返り、一緒に話しながら休憩コーナーに向かった。
 三人で席に着くと、ローザンが笑顔でユイに話しかけた。
「いつもありがとうございます」
 ユイも少し笑顔を作って答える。
「気にしないで。他にできる事ないし。三時にまたケーキ作ってくるから、楽しみにしててね」
「はい」
 ローザンは嬉しそうに一層微笑むと、カップを口へ運んだ。
 二人のやり取りを横目に、ロイドは黙々と茶をすすった。ロイドの隣でユイは、机の上のカップを両手で包み俯いている。
 少しして、黙り込む二人を不審に思ったのか、ローザンが尋ねた。
「ケンカでもしてるんですか?」
「いや、別に」
 チラリとユイに視線を送ると、彼女もこちらを向いてローザンに答えた。
「してないよ」
 ローザンは腑に落ちないといった表情で、首を傾げながら今度はユイに尋ねた。
「そうですか? ユイさん、元気がないですね。どこか具合が悪いんですか?」
 ユイは不自然なほどにっこり笑って、ローザンに言い訳をする。
「大丈夫、なんともないから。ちょっと生理痛なの」
「え……」
 ローザンは、絶句して気まずそうに俯いた。
「すみません。詮索して……」
 ユイの張り付いたような笑顔から、出任せだと分かる。確かに、ロイドに告白したが拒否されたので元気がない、とは言えないだろう。
 休憩を終えて、ロイドとローザンは仕事に戻った。少ししてユイが声をかけてきた。
「私、部屋に戻る」
 振り返ると、後片付けを終えたユイが、給湯コーナーの出入口に立っていた。
「そうしろ。生理痛なら、しばらく寝とけ」
 そう言って歩み寄ると、ユイはムッとした表情でロイドを睨んだ。
 ロイドにはウソがバレている事を、ユイも知っているようだ。
 ロイドはローザンに一声かけて、ユイと共に研究室を出た。
 互いに一言も口をきかないまま殿下の部屋にたどり着き、ユイが扉に手をかけるのを見届けて、ロイドは立ち去ろうとした。ユイは慌てて、それを引き止める。
「待って。一緒に来て」
 ロイドは怪訝に思いながらも、ユイの後について部屋に入った。
 部屋の中では使用人たちが掃除の真っ最中で、ラクロット氏がそれを監督していた。
 日中は部屋に戻ってくる事のないユイを、驚いて見つめるラクロット氏に、ユイは殿下になって人払いを命じた。
 ラクロット氏が使用人たちを連れて部屋を出て行くと、ユイは真っ直ぐリビングに向かう。
 ユイが二人きりで、何を話そうとしているのか想像はつく。ずっとごまかし続ける事が、出来るわけもない。
 ロイドはリビングの入り口で立ち止まると、無表情のまま芝居がかった調子で問いかけた。
「人払いまでなさって、私にどういった内密のご用件ですか? レフォール殿下」
 ユイはすかさず強い口調で言う。
「茶化さないで。こっちに来て」
 ロイドは大股でユイの目の前まで歩み寄り、威圧するように背筋を伸ばして、上から見下した。
「何の用だ」
 ユイも負けじと、睨み上げながら言う。
「あなた、私を連れて逃げるつもりないでしょう」
「当たり前だ」
 ロイドが即答すると、ユイは怒鳴った。
「守るつもりのない約束なんて、しないでよ!」
「あんなものは最初から無意味だ。オレは必ず殿下を見つけ出すと言っただろう。見つからなかった時の約束なんか守るつもりはない」
「そんなの……!」
 反論しようとするユイの言葉を遮るように、ロイドは続けた。
「詭弁だというのか? おまえの方こそ考えが矛盾しているじゃないか。オレには絶対できると言っておきながら、なぜ、できなかった時の事にこだわるんだ。あれは単なる気休めで、本当のところはできないと思っているのか? 侮辱するな」
 ユイは項垂れて、力なく問いかける。
「好きになるなって、どういう意味?」
「そのままの意味だ」
 途端にユイは、顔を上げて再び怒鳴った。
「できるわけないじゃない! 好きなんだもの! あなたはできるの? 言われたからって気持ちを変えられるの? 私に好かれて困るんなら、優しくしないでよ! 抱きしめないでよ! キスなんかしないでよ!」
 気持ちを変えられるわけなどない。
 ユイが愛しくてたまらないのに、抱きしめずにいられるか! 口づけないでいられるか!
 憤る気持ちのまま、ロイドはメガネを外しながら、片腕でユイを強引に抱き寄せた。
「そんなの、オレの勝手だ」
 荒々しく口づけると、ユイは即座にロイドを突き飛ばした。
「バカ! 大嫌い!」
 泣きそうに顔を歪めたユイの叫びに、頭が真っ白になり、一瞬動きが止まる。
 その直後、ユイの平手が頬に振り下ろされた。
 頬を打つ派手な音に驚いて、ユイは目を見開いたまま硬直している。
 ロイドは少し頬を撫でた後、メガネをかけ直し、ユイをまっすぐ見つめた。少し目を細め、口の端を片方持ち上げると、静かに言う。
「それでいい」
 そして背を向け、殿下の部屋を出て行った。
 研究室に向かいながら、ユイに打たれた頬を撫でる。
 連れて逃げて不幸にするくらいなら、嫌われた方がマシだと、自ら望んだ事だ。なのに実際、嫌いだと言われると、かなり痛い。
 自分が傷ついた事より、ユイの泣きそうな顔を思い出すと、ユイを傷つけた事で、打たれた頬より、胸の方が遙かに痛んだ。




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