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7.



 その夜、月海はいつもより早く自室の外に出た。
 昼間の和成の不思議は謎が解けた。後は夜の和成の不思議だけである。どうしても何を言っているのか知りたくなった。
 月海は目立たない暗い色の着物を着て、中庭に降りた。
 いつも和成が現れる場所は大体一緒だ。月海はその場所から、遠すぎず近すぎず正面でない場所に生えた木の上に上った。
 そこからは君主居室の庭がよく見える。庭に植えられた大きな桜の木が、すでに満開となっていた。
 月海は太い枝に座り、幹に腕を回して掴まった。
 少しして庭の奥に和成の姿が見えた。和成は途中桜の木の前で立ち止まり、少し眺めた後、まっすぐこちらへ向かってきた。
 月海は気配を殺して身を固くする。和成が一歩一歩と近付いてくるごとに鼓動が早くなり、思わず着物の胸元を掴んだ。
 和成がいつもの場所に到着した。斜め横から見る和成の顔がはっきりと見える。ここからなら口の動きもはっきりとわかりそうだ。
 和成が月を見上げた。月海は見逃さないように固唾を飲んで見つめる。
 月を見つめて目を細めると和成は口を開いた。和成の唇が言葉を紡ぎ出す。


――――アイシテイマス――――


 一言発した後、和成は目を閉じて幸せそうに微笑んだ。その笑顔が月海の視界の中で、どんどん滲んでいく。見開かれた月海の目から涙があふれた。
 あの言葉が誰に向けて発せられた言葉かすぐにわかった。和成は夜ごと亡き妻に向かい愛を語っていたのだ。
 塔矢との勝負に挑むまでもなく、最初から結果はわかってしまった。
 敵うわけがない。思い出の中で日ごとに輝きを増していく人に、彼の意識の外にいる今を生きる自分が。
 次から次へと涙があふれ、止まらなくなった。
 月海は和成が立ち去った後も、しばらく木の上で泣き続けた。



 翌日、夜になって月海は暇をもてあました。和成が庭に現れるにはまだ時間があるが、もう廊下に出る気はなかった。
 幻影のような不思議で美しいあの光景が、自分にとってはつらいものでしかない事を知ってしまったからだ。
 それでも和成への想いに見切りを付ける気にはなれなかった。
 寝るまでの間どうやって時間をつぶそうか考える。ふと、和成が書斎の本を読みたかったらいつでも言ってくれと言っていた事を思い出した。
 昼間のうちに借りておくべきだったと後悔していると、懐の電話が鳴った。
 相手を確認してドキリとする。和成だ。
『まだ寝てないよね? 今から花見でもどう?』
「どちらへお出かけですか?」
『ここだよ。こっちの庭の桜が満開なんだ』
 ゆうべ見た満開の桜の事だ。
「あぁ、あの桜」
『あれ? よく知ってるね』
 ヤバイ! 夜中に覗き見していた事がバレる、と思い月海は適当に出任せを言う。
「先日、ご挨拶に伺った時、庭に大きな桜があるのを拝見しておりました」
『あぁ、やっぱ、女の子は花が好きなんだね』
 どうやらごまかせたらしい。月海が内心安堵のため息をついていると、和成が全く違う事を尋ねた。
『ところで月海はいける口?』
「……お酒ですか? たしなむ程度には」
 途端に和成の声が楽しそうに弾んだ。
『よかった。じゃ、一緒に花見酒といこう。庭で待ってるから』
 そう言って和成の電話は切れた。
 最後の嬉しそうな声を思い出して月海はクスリと笑った。
「お酒が好きなのね」
 和成の想いが自分にない事はわかっていても、一緒に酒杯を傾ける事ができるとなるとやっぱり嬉しい。
 月海は鏡を覗いて、手櫛で髪をなでると部屋を出た。
 渡り廊下を越えて、庭に和成の姿を捜しながら廊下を進む。少し歩くと桜の木の前で手を振る和成を見つけた。
 廊下から庭へ降りて和成の元へ駆け寄ると、桜の木の前に置かれた机の上に酒と盃が用意されていた。
 和成に促され席に付くと、早速和成が月海の前の盃に酒を注ごうとした。
「私が、お注ぎいたします」
 月海は慌てて和成の持つ徳利を取り上げようと手を伸ばした。和成はその手を押さえてかまわず酒を注ぐ。
「いいんだよ。私が頼んで付き合ってもらってるんだから。無礼講ってことで」
「すみません」
 月海は恐縮して首をすくめると、盃に注がれる酒を見つめた。和成は自分の盃にも酒を注ぎ、盃を持ち上げた。
「じゃ、乾杯」
 和成の合図で互いの盃の縁を合わせ、一口酒を口に含む。
 舌に触れた味と鼻腔に抜ける香りに、月海は少し目を見張ると思わず呟いた。
「あ、おいしい」
 その反応を、和成は嬉しそうに笑う。
「わかる? かなりいける口だね。私が好きだからいい酒を用意してくれるんだけど、ひとりじゃ味気なくてね。これからも時々付き合ってくれると嬉しいんだけど」
「はい。いつでもお申し付け下さい」
 胸がふわっと温かくなった。多分、こんな風に共に過ごせる時間を持てるだけで満足できると思えた。
「では、ご返杯を」
 月海は和成の盃に酒を注ぐと、目の前の桜に目を向けた。満開の桜は月光の下、暗い庭の中でひときわ白く浮き上がっている。
「きれいですね。自分の部屋でお花見ができるなんて贅沢だなあって、この間思ってたんですよ」
「私もこの桜をこんな風にゆっくり眺めるのは十二年ぶりだよ。昔よりもさらに立派になったみたいだ」
 桜を見つめて懐かしそうに目を細める和成に、月海は何の気なしに尋ねた。
「以前は奥様と花見酒を?」
「いや、紗也様はお亡くなりになった時、まだ未成年だったからね。来年になったら一緒に飲もうと約束しただけだ」
 ドクリと鼓動が大きく脈打って、月海は全てを一瞬にして悟った。
 十二年前といえば、和成が君主に就任した年である。先代が命を落とした戦は春だったと聞く。十二年前、この桜の前で和成は先代と結婚の約束をしたのだろう。
 それを悟った途端、胸が締め付けられるような息苦しさを覚えた。この苦しみは和成の口からはっきり白黒付けてもらわない限り消えないような気がする。
 月海は意を決し、玉砕覚悟の上で勝負に出た。
「あの、和成様。無礼講だとおっしゃいましたよね?」
「うん」
「私のわがままをひとつだけ聞いていただけませんか?」
「内容にもよるけど、とりあえず言ってごらん」
 月海は和成を見つめて息を飲んだ。そして、視線を落として一気に告げた。
「私は和成様をお慕い申しております。どうか、一夜の情けを賜りたく存じます」
 和成は一瞬目を見開いた後、すぐに静かに微笑んだ。
「夜伽の話は冗談だよ」
「存じております。だから私のわがままにございます」
 和成はひとつ嘆息すると静かに言う。
「君に恥をかかせるつもりはないんだけど、そのわがままは聞けない。男としてはもったいない事なんだろうけどね。こんなに若くて素敵な女の子の申し出を断るなんて。だけど君の想いに応えられないのに、一夜の情けをかけられるほど私は器用じゃないんだ」
 和成に断られ、月海は急に自分の言った事が恥ずかしくなり、顔を真っ赤にして頭を下げた。
「わ、私ったら、なんて事……! ご無礼をお許し下さい!」
「いいよ。無礼講だ」
 そう言って笑う和成に、月海はおもむろに顔を上げて言い募る。
「口づけもダメですか?」
 和成は一瞬絶句して月海を見つめた後、吹き出した。
「食い下がるね、君も。だけど交渉の仕方としてはうまいよ。最初ダメっぽいところから要求して、徐々に敷居を低くしていくんだ。だって、一夜の情けに比べたら口づけなんてなんでもない事のように思えるもの」
 和成は月海を抱き寄せると、額に軽く口づけた。
 月海は驚いて目を見開くと、和成の触れた額に手を当てた。和成は少し笑って首を傾げる。
「それで妥協してもらえないかな。君に何度も恥をかかせるわけにはいかないしね」
 和成を見つめていた月海の目から涙があふれて頬を伝う。月海は顔をゆがめると和成に縋り付いた。
 届かぬ想いが言葉となって唇からあふれ出す。
「好きです、好きです、好きです、好きです」
「うん。ありがとう。だけど、ごめん」
 和成は月海の肩を抱いて、子供をあやすように頭をなでた。



 翌朝、塔矢が執務室の戸を開けると、待ち構えたように和成が願い出た。
「塔矢殿、月海を私に下さい」
 塔矢は、和成がこれまで見た事がないほど驚愕の表情を浮かべると、思い切り動揺してしどろもどろに問いかけた。
「お、おまえ、あいつを受け入れたのか? 紗也様はもういいのか?」
 これほどうろたえた塔矢を見る事は二度とないかもしれない。和成はクスリと笑うと意地悪く言う。
「裸で逆立ちするそうですね」
「あいつは見たくないと言ってたぞ」
 笑顔を引きつらせながら抵抗する塔矢はおもしろかったが、そろそろ本題に入る事にする。
「私は見てみたい気もしますが、そういう意味ではありません。月海を外交官に任命したいと思います。断られてもめげない根性が気に入りました。交渉も上手ですしね。一番の理由は彼女が女性である事です」
 すっかり平常心を取り戻した塔矢がピンと来た。
「対浜崎外交戦略か」
「そうです。軍師のみならず外交官も女性だなんて、私に対する嫌がらせとしか思えません」
 憮然として腕を組む和成を塔矢は呆れたように見つめる。
「あれは嫌がらせというより、美少年を美女で腑抜けにしようという作戦だろう。あからさまに扇情的な格好をしてたじゃないか」
「そうでしたっけ? 確かに薄着だったと思いますけど、夏場だったから単に暑いのかと思ってました。まぁ、そういう作戦だったとしても、月海には通用しませんし、私と外交で国外に出る時は護衛も兼任ですから人件費も一人分浮きますよ」
 にっこり笑う和成に塔矢も笑い返した。
「そうだな。大臣たちに進言してみよう」



 夜、和成は居室の庭の外れで月を見上げていた。
 紗也への想いに気付いた時、この場所で紗也と月を見上げた。あの時紗也のいた場所に、今は自分が立っている。
 あの時は想いが消えてなくなる事を願っていた。想いは消えるどころか日増しに膨らみ、今も自分の心を捕らえて離さない。
 紗也への想いを思い出にしてしまえたなら、自分も月海も幸せになれたのかもしれない。
 だが、和成は紗也への想いが消えない事を不幸だとは思った事がない。紗也への想いは、今でも心を暖め、幸せな気分にさせる。
 かつて自分が月に願ったのだ。この幸せな魔法が解けないようにと。
 紗也の存命中に贈る事のできなかった言葉。言葉が天に届くなら、毎日紗也に贈りたい。
 和成は月を見上げて微笑むと、天に向かって言葉を贈る。
「愛しています」
 今も、これからも、未来永劫――。



(完)




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