目次へ

番外編・九十分の一の奇跡




 そろそろ来るはずだ。
 紗也は机の上に両手で頬杖をつくと、わくわくしながら執務室の戸をじっと見つめた。
 傍らでそろばんを弾いていた塔矢が、顔を上げて紗也に声をかける。
「お疲れですか? お茶にしましょうか」
「うん」
 入口を見つめたまま生返事をする紗也が何を待っているのか、塔矢には見当が付いていた。
 その様子を見つめて、塔矢はひとつ嘆息する。そして女官に茶を頼むため、机の上に置かれた内線電話の受話器を持ち上げた。
(来た!)
 紗也が入口を見つめてピクリと反応する。
 遠くから荒々しい足音がこちらに向かってどんどん近付いてきた。
 これから起こる事はわかっている。塔矢はかけようとしていた電話の受話器を戻し、椅子の背にもたれて軽く目を閉じ腕を組んだ。
 足音が執務室の前で止まると次の瞬間、部屋の戸が怒鳴り声と共に勢いよく開け放たれた。
「紗也様――――っ!」



 四ヶ月前、紗也の父親である杉森国君主が急逝した。母親は紗也が生まれて間もなく他界している。紗也はたったひとりの身内を失ったのだ。
 少しして、父の家臣だった大臣たちが一堂に会して紗也に告げた。
「今日からあなたが杉森国の君主です」
 十三歳の紗也には、君主とは何なのか、何をすればいいのか、さっぱりわからない。
 幼い頃から、読み書きや計算を教えてくれたり、時々遊んでくれた塔矢が君主補佐官として紗也の側仕えとなった。その塔矢が三ヶ月前、紗也の護衛官として連れてきたのが和成だ。
 君主が国の頂点である事くらいは紗也にもわかる。
 初めて和成に会った時、”自分を”というより、国の頂点を、まだあどけなさの残る自分と大して年の違わないこの少年に任せて大丈夫なのかと、素直にその不安が口をついて出た。
「こんな子供に護衛なんか任せて大丈夫なの?」
 それを聞いて目の前の少年は途端に不機嫌を露わにする。そして即座に怒鳴りつけてきた。
「俺だって、こんな子供のお守りはごめんですよ!」
 側にいた塔矢がすかさず少年の頭にげんこつを落とした。
 頭を押さえて首をすくめる少年の顔を紗也は呆気にとられてまじまじと見つめる。
 父が亡くなってから紗也に説教をする者は女官長くらいしかいなかった。それも怒鳴りつけたりはしない。
 大臣たちや塔矢に至っては、昔から多少のわがままやイタズラは怒るどころか笑って受け流すのだ。
 かわいがって甘やかされているというより、本気で相手にされていないようで、かえって迷惑をかけないようにしようという気になった。
 ところが和成はいきなり怒鳴りつけてきた。
 よくよく考えてみれば、自分が何気なく発した言葉は、初対面の相手に対して失礼極まりないものだ。怒って当然といえば当然だが、そういう者は今までひとりもいなかった。
 面と向かって感情を露わにする和成に紗也の興味は引きつけられた。
 和成なら本気で相手にしてくれる。紗也は宝物を見つけたような気分になった。



 てっきり自分より二つ三つ年上なだけだろうと思っていた和成が、実は九才も年上で成人した立派な大人だと言う事を知り紗也は驚いた。大人が子供の自分を相手に本気で口げんかすることが、また珍しかった。
 紗也の護衛とはいえ、和成は常に紗也の側にいるわけではない。紗也の側には杉森軍で最強と言われている塔矢がいるし、城内で護衛の必要はないからだ。
 紗也は和成の反応がおもしろくて、和成に会うのが楽しくて、和成の休みの日以外は毎日他愛のないイタズラを繰り返した。そして、その度に和成は紗也の元に怒鳴り込んできた。
 最初は本気で和成を諫めた塔矢も、紗也が怒鳴り込んでくる和成を楽しみにしている事に気付き、形式的に注意はするものの、げんこつを落としたり、怒鳴りつけたりはしなくなった。
 日に数回イタズラを繰り返すようになった紗也を、さすがに塔矢も見かねて注意する。
「紗也様、イタズラもほどほどになさいませ。和成にも仕事があるのです。せめて日に一回でお願いします」
 紗也は思わずクスリと笑った。
(一回ならいいんだ)
 和成が聞いたら一回でもダメだと怒りそうだが、塔矢は自分の楽しみを奪わないつもりらしい。
「はぁい」と素直に返事をして、それ以降紗也は塔矢の言いつけを忠実に守った。



 その日紗也は不安な気持ちを抱えて、執務室にひとりでいた。つい先ほど、会議があると言って塔矢は部屋を出て行った。
 たぶんもうばれているはず。そろそろ和成が怒鳴り込んでくるだろう。
 だが、今日はわくわくと楽しい気分ではなかった。今日のは今までとは桁違いに悪質だと自分でもわかっている。和成や他の者からしてみれば、質の悪いイタズラとしか思えないだろうが、イタズラのつもりは毛頭なかった。
 和成の足音が近付いて来た。紗也はいたたまれなくなり、席を立つと身を隠すように机の陰にしゃがみ込む。
「紗也様――っ!」
 いつものように和成が怒鳴り込んできた。その声に紗也は思わずビクリと身を硬くする。
「……あれ?」
 誰もいない室内に拍子抜けして、和成が呆けたような声を漏らした。
 そのまま出て行ってくれる事を祈りつつ、息を殺してじっと待つ。すると頭の上から声がした。
「何をなさってるんですか?」
「ひゃあぁっ!」
 飛び上がりそうなほど驚いて、紗也が思わず悲鳴を上げると、和成はたじろいで一歩退いた。
「なんなんですか、いったい」
 うろたえて怪訝な表情をする和成を振り返り、紗也は苦し紛れの言い訳をする。
「筆を落として、どこに行ったかわからなくなっちゃって……」
「筆なら机の上にありますけど」
 和成は目を細くして静かに指摘した。紗也は観念して立ち上がり、チラリと和成を見た後、黙って俯く。
「紗也様、どうして食堂の昼食用に仕入れた鳥を全部逃がしておしまいになったのですか?」
 静かに問いかける和成がいつもより怒っているように思えて、紗也はその顔を見る事ができず、俯いたまま答えた。
「……だって、全部殺しちゃうって言うから……」



 朝、紗也が中庭を散歩していると、食堂の裏手に鳥の入ったカゴが運び込まれるのを目にした。
 生きた動物を間近で目にするのは珍しいので、紗也は駆け寄ってカゴの中の鳥を眺める。鳥の方も紗也が珍しいのか、覗き込む紗也に首を傾げて見つめ返した。
 その仕草が愛らしくて、紗也は思わず微笑む。
 鳥を運んできた業者は、紗也が君主だとは知らない。城に勤めている誰かの子供だとでも思ったのだろう。
 鳥を見つめて微笑む紗也に、苦笑を湛えて軽く告げた。
 その鳥にあまり情をかけない方がいい。昼までには殺されて君の口に入るのだからと。
 業者が帰った後、紗也はカゴのフタを開けて、中の鳥を全部逃がした。
 たくさんの羽音と鳥の鳴き声に気付いて、食堂の裏口から料理長が顔を出した時には、鳥は全て飛び立った後で、紗也も背を向けて走り去るところだった。



「鳥がお好きなんですか?」
 和成は相変わらず静かに問いかける。
「特に好きなわけじゃないけど、でも、あの鳥はかわいかったの」
 我ながら正当な理由になっていないと紗也は思った。
 いつもより強く怒鳴られる事を覚悟して身構えながら、恐る恐る和成を見上げる。
 黙って紗也を見下ろしていた和成は、顔を上げた紗也と目があった途端、穏やかに微笑んだ。
「私をからかうためになさったにしては度を超えていると思ったのですが、そうではなかったようで安心いたしました。今後は食堂裏にはお近付きにならない方がよいかと存じます。また鳥が運び込まれる事があるはずですから」
 そう言って和成は一層目を細めて微笑んだ。
 より一層幼く見える無邪気な少年のごとき笑顔に、紗也は目を見開いたまましばらくの間見とれる。
 その様子を見て、和成は不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「和成って、笑うとすごくかわいいのね」
 目を輝かせて笑顔を向ける紗也を見つめて、和成は瞬時にいつもの不機嫌顔に戻る。
「やはり、私をからかっておいでなのですね。失礼します」
 不愉快そうにそう言うと、和成は紗也に背を向けて執務室を出て行った。
 ほめたつもりが何故怒らせたのか、紗也には理由がわからない。
 そしてしばらく後、和成の笑顔を見た事のある者が城内にほとんどいない事を知った。女官たちは女官長に至るまで誰ひとりとして見た事がないという。
 紗也は改めて、ものすごい宝物を手に入れたような気がして嬉しくなった。
 紗也が初めて、奇跡のような和成の笑顔を見たのは、和成が護衛官に就任して以来、実に九十日目の事だった。



(完)




目次へ


Copyright (c) 2009 - CurrentYear yamaokaya All rights reserved.