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6. 朝食と後片付けを済ませ、ペットボトルの水を飲んでいると、シンヤがダイニングにやってきた。 真純の飲んでいるペットボトルを、物欲しそうに見つめているので差し出す。 「飲む?」 「え? いいの?」 なぜかシンヤは差し出されたペットボトルを、戸惑いがちに見つめる。 「いいよ。水くらい遠慮しなくても」 「でも間接キスになっちゃうよ?」 シンヤの言葉に、真純は思いきり脱力する。 「何、それ。中学生じゃあるまいし。飲み会とかで、みんなで回し飲みすること、普通にあるでしょ」 「だって、さっき嫌がってたから、間接でもイヤかと思って。真純さんがかまわないなら、僕は全然平気だよ」 そう言ってペットボトルを受け取ると、シンヤはイタズラっぽい表情で、ペットボトルの口をペロリと舐めた。 真純は大きくため息をついて目を伏せる。 「わざわざ舐めなくていい」 「なんだ、やっぱ気にしてんじゃん」 「おまえが変なこと言うからだよ」 シンヤの横腹を小突いて部屋を出ようとすると、後ろから声をかけられた。 「ねぇ、頭痛薬ない?」 真純は振り返る。 「二日酔いには効かないと思うよ。それ飲んで、トイレ行って、少し寝てたら治るよ」 「了解」 軽く手を挙げて、シンヤは水をグビグビと飲み始めた。彼が再び寝てしまう前に、告げておくことにする。 「私、もう少ししたら出かけるから」 「え? 今日も?」 「っていうか、ほぼ毎日。今日は掃除しなくてもいいけど、体調が快復したらしてくれるとありがたいけど」 「うん……」 返事をしながら、シンヤは何か言いたそうにしている。 「何?」 真純が促すと、シンヤはおずおずと尋ねた。 「僕も一緒に行っちゃダメ?」 「なんで?」 「なんでって……」 再び言いにくそうに口ごもるシンヤに、真純は思い付いたことを訊いてみた。 「もしかして、辺奈商事の仕事に興味あるの?」 途端にシンヤは、安心したように笑顔になる。 「あ、うん。そう。僕、今仕事してないし」 そういえば、ゆうべクライアントと交渉が決裂したと言っていた。 「そういう事なら瑞希に訊いておいてあげるよ。アポなしでいきなり会うのはマズイでしょ」 「うん……。じゃあ、一緒に行くだけでも。外で待ってるから」 なぜ一緒に来たがるのか意味が分からず、真純はついつい声を荒げる。 「だから、なんで?」 「なんでって……僕、真純さんの番犬だし」 シンヤが何かを隠していることは、なんとなく分かる。元々謎だらけの子犬だが、曖昧な笑みを浮かべながら、はぐらかそうとしている様に苛つく。 「昼間の通い慣れた道で、そんな必要ないから。酔っぱらいはおとなしく寝てなさい」 ピシャリと言い放ち背中を向けると、シンヤは力なくつぶやいた。 「じゃあ、気をつけて。行ってらっしゃい」 シンヤの意味不明な言動は気になるが、真純はひとりで辺奈商事へ向かった。 いつものカフェで待っていると、少し遅れて瑞希がやって来た。 コーヒーを持って向かいの席に着くと、瑞希は笑顔で軽く尋ねる。 「お待たせ。その後どう? 子犬ちゃんに襲われたりしてない?」 「え……」 真純が一瞬うろたえたのを瑞希は目ざとく察知して、すかさずツッコミを入れる。 「あら、ホントに襲われたの?」 「ちがっ……!」 慌てて否定する真純を無視して、瑞希はニコニコしながら続けた。 「まぁ、よかったんじゃない? 三十路手前で女になれて。あんた放っといたら、そのまま妖精になっちゃいそうだったもの」 「何? 妖精って」 わけのわからない話に思わず食いつくと、瑞希はニッコリ笑って説明した。 「バージンのまま死んだ女の子は妖精になるって言うじゃない?」 そんな話は初めて聞いた。真純は目を細くして瑞希に問い質す。 「誰が言ってんの?」 「飲み屋のお姉さん」 どうやら一部地域限定のファンタジーらしい。 大きくため息をつく真純を気にも留めず、瑞希は勝手に話を膨らませている。 「でも、うらやましいわね、二十歳の若者なんて。若い子ってテクはなさそうだけど、体力だけは有り余ってそうじゃない? 実際のとこ、どうなの?」 身を乗り出して問いかける瑞希に、真純は眉をひそめて顔を背ける。 「知らないよ、そんな事」 「いいじゃない。教えてくれたって」 黙っていても瑞希の誤解は解けそうもないので、真純はゆうべと今朝の話をした。 話を聞いて瑞希は、ガッカリしたようにため息をついた。 「なぁーんだ。実質的には抱きしめられただけなのね。あんた、うろたえすぎよ。いいじゃないキスくらい」 「よくないよ。そんな軽々しく」 「ま、最初からちょっと意外だとは思ったのよね。あんた昭和の女だし」 「瑞希だって昭和じゃん」 「生まれ年のこと言ってんじゃないわよ。学生の頃からそうじゃない。告白されても知らない人だからって断ったり」 確かに昔、そういう事もあった。けれど告白にOKしたら、彼氏彼女として付き合うことになる。 知らない人とその瞬間から、彼氏彼女になるなんておかしいと思う。だから断ったのだ。 黙り込む真純に、瑞希はからかうように言う。 「奥ゆかしいのも過ぎると、本当にフェアリーになっちゃうわよ」 真純はムッとして言い返した。 「別にいいよ。いっそ、これ以上ないってくらい立派なフェアリーになってやる」 「まぁーっ開き直っちゃって、かわいくないわね。シンヤくんの事、嫌いじゃないんでしょ?」 「嫌いじゃないけど、特別に好きなわけでもないし」 「じゃあ、私に紹介してよ」 「へ?」 「謎めいた子犬ちゃんって興味あるわ」 瑞希にシンヤを紹介して、二人が付き合うことになったら、瑞希は度々家にやって来るようになるのだろうか。そして自分の目の前でイチャイチャしたりして……。 この二人なら、あり得るような気がする。そうなったら、なんかおもしろくない。 シンヤに出て行ってもらえばいいわけだが、どういうわけか、その選択肢は真純の中から欠落していた。 そんな事を考えていると、出がけにシンヤが言っていた事を思い出した。 「そういえば、シンヤの方が紹介してもらいたがってたよ」 「あら、シンヤくんって年上好きなの?」 嬉しそうに声を弾ませる瑞希に、真純は意地悪く言う。 「瑞希じゃなくて、辺奈商事の仕事に興味があるんだって。システムの仕事ある?」 途端に瑞希は落胆して、肩を落とした。 「なんだ、そっち? 優秀な技術者は随時募集中よ。特に最近、ハルコが余計なことばかりしてるから、みんな、やりにくいって仕事が滞ってるのよね」 「ハルコって、まだ機嫌悪いの?」 真純が問いかけると、瑞希は腕を組んで首を傾げた。 「うーん。よく分からないんだけど、何か捜してるみたいなのよ。とにかくヒマさえあれば、やたら検索してるの。そのついでに作りかけのプログラムソースを覗いたりして、ロジックやコメントの内容にまでケチつけるから、プログラマから苦情が殺到してるのよ」 「それって何かマズイの?」 プログラミングについて、真純はよく分からない。素朴な疑問を口にすると、 「まずくはないけど、イヤなものよ」と前置きして、瑞希は簡単に説明してくれた。 プログラム言語にもよるが、人間の書いたプログラムソースは、そのままではコンピュータに理解できない。そのためコンパイラというツールを使って、機械語に翻訳する。 翻訳作業中に翻訳できなかった部分を、コンパイラはエラーメッセージとして人間に知らせてくれる。 だが、コンパイラが教えてくれるエラーは、命令語のスペルが違っていたり、定義が漏れていたり、命令語の使い方が間違っていたりという、構文の間違いだけだ。 実際に動かしてみなければ分からないロジックのバグや、ましてやプログラムの動作には何の関係もない、プログラムソースを読みやすくするためのコメント(注釈)の部分についてはエラーを返したりしない。 作りかけのプログラムソースには、その辺の不具合は満載と言ってもいい。それをいちいち指摘されるのは、ありがたい反面、不愉快でもあるという。 おまけにハルコにコンパイルの仕事はやらせていないらしい。 「頭のよすぎるコンピュータってのも考えもんだね」 「別に実害があるわけじゃないから放置してたんだけど、ちょっと苦情がうっとうしいくらいに増えてきたから、何を捜してるんだか、調べてみようと思うのよ」 ため息と共に、瑞希は席を立った。 いつものように書類を交換し、明日シンヤを引き合わせることを約束して、真純は辺奈商事を後にした。 家に帰って玄関を入った途端、奥からシンヤがものすごい勢いで駆け寄ってきた。 「真純さん、おかえりーっ!」 呆気にとられて立ち尽くしていると、抱きすくめられた。シンヤはそのまま背筋を伸ばして、軽々と真純を抱え上げる。足が宙に浮いて、逃げられなくなった。 「ちょっと! 何?」 真純の抗議を無視して、シンヤはギュッと抱きしめると、肩の上で大きく息をついた。 「よかった、無事に帰ってきて」 何を大げさな、と思いながらも、シンヤの心底安心したような声が心地よくて、真純は少し笑いながら返事をした。 「うん。ただいま」 |
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