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幕間 お・は・よ




 ほんわかした温もりに包まれて、脳がゆっくりと目を覚ます。けれどまだ、目を開きたくはなかった。目覚まし時計が鳴るまでの間、もう少しだけこの幸せな微睡みの中に浸っていたい。
 目を開かなくても分かる朝日の光に背を向け、真純は温もりの中に潜り込んだ。
 顔をすり寄せた大きな温もりの壁から、心地よい静かな鼓動が聞こえてくる。
 鼓動――?
 違和感に気付き、パッチリと目を開く。布団の中、目の前に巨大な壁が横たわっていた。恐る恐る顔を上げると、至近距離でシンヤが目を細めた。
「おはよ」
 一気に眠気が吹っ飛んだ。同じ布団の中で、シンヤに抱かれて気持ちよく眠っていたらしい。
「なんで――っ?!」
 慌てて手も足も突っ張って離れようとすると、ベッドから落ちそうになったシンヤが逆にしがみついてきた。
「うわっ! そっちこそ、なんで?!」
 腕を突っ張ったまま、真純はシンヤを凝視する。どうして一緒に寝ているのか、全く記憶にない。
 再び同居する事になったシンヤの就職祝いで、ゆうべ一緒に飲んだのは覚えている。だが、いつ、お開きになったのか、そもそも、どれだけ飲んだのか覚えていない。
 当然、いつの間にベッドに入ったのかも。パジャマに着替えているのが、更に不安でしょうがない。シンヤは飲んでいた時と同じ格好だが。
 シンヤがしがみついていた手を緩めて、小さくため息をついた。
「やっぱ、記憶飛んでるんだ。かなり飲んでたもんね」
「……私、そんなに飲んだの?」
「おまえ弱いから飲むなって、僕の分まで注ぐ端から取り上げて飲んでたよ」
「う……」
 酷い酔っぱらいだ。
 今まで記憶が飛んだ事など、一度もない。シンヤが戻って来た事に浮かれて、調子に乗りすぎたらしい。
「ごめん。ここまで運んでくれたの?」
「ううん。真純さんが自分でここまで来たよ」
 途端に不愉快になり、真純はシンヤを睨む。
「じゃあ、どうして一緒に寝てるの?」
 シンヤもムッとした表情で、真純を睨み返した。
「自分が引きずり込んだんだろ?」
「え……」
 あり得ない。
 正気だったら絶対にあり得ない、自分の暴挙に呆れて真純は絶句する。
 シンヤは表情を緩めて、再びため息をついた。
「本当に全然、覚えてないんだね」
 そして記憶にない、ゆうべの経緯を教えてくれた。
 さすがに飲み過ぎだと判断したシンヤに促され、真純は自分で部屋に戻った。そして自分でパジャマに着替え、部屋を出て行こうとするシンヤを、一緒に寝てくれと布団に引きずり込んだらしい。
 あまりの醜態に、顔から火を噴きそうな気がして真純は俯いた。
「いきなり目の前で脱ぎ始めるし、焦ったよ」
「え……」
 パジャマの下はパンツ一枚だ。確かにいつも寝る時はそうだが、着ていたものは全部脱ぎ捨てたらしい。しかもシンヤの目の前で。
 真純は少し顔を上げて、上目遣いにシンヤを窺った。
「見たの?」
「見てない見てない」
 シンヤは笑いながら手を振って、軽く否定する。その笑顔がウソ臭い。
 探るようにじっと見つめていると、シンヤはヘラリと笑って白状した。
「いやぁ、真純さんって身体もちっちゃいけど、おっぱいもちっちゃいなぁーって」
「やっぱり見たんじゃない!」
「見せられたんだよ」
 平然と言い返すシンヤが小憎たらしくて、叩こうと手を振り上げると、その手首を掴まれた。
 シンヤは余裕の笑みを浮かべて、真純に問いかける。
「その元気なら大丈夫そうだね。気分悪いとか、頭痛いとかない?」
 優しい言葉にすっかり毒気を抜かれて、真純は小さく頷く。
「うん。ちょっと眠いだけ」
「そっか。ホント酒強いね」
 そう言って一層細められたシンヤの目に、邪な光が宿ったように見えた。
 ――黒シンヤ降臨?
 ドキリとして身構えようとした時には、すでに遅かった。掴まれた手首をベッドに押さえつけられ、あっという間に上向きにされた身体の上に、シンヤがのしかかってきた。
 真純を見下ろすシンヤの表情は、明らかに黒シンヤだ。
「おまえ、さっきまでかぶってた犬は?」
「朝の散歩に出かけたよ」
「すぐに連れ戻してきなさい!」
「やだ」
 空いた手で肩を押さえて押し戻そうとするが、真純の抵抗などものともせずにシンヤは距離を詰めてくる。
 目の前まで迫ったシンヤが、静かに言った。
「本当はゆうべの内にって思ってたんだけどね。真純ってガードが堅いから、お酒飲んでリラックスした時ならイケるかなって。まさか、あんなに飲むとは思ってなかったから」
 ゆうべから企んでいたとは、黒シンヤ侮り難し。という事は、拾ってくれたお礼とか言って、ワインを一本くれたのも作戦の内だったのか。
 泥酔どころか酩酊状態だったから、危険を回避できたようだ。
 ん? てことは――。
「一緒に寝ただけなの?」
「うん。ベッドに入った途端、真純眠っちゃったし。多分覚えてないんだろうなって思ったし」
 いつの間にか完全に覆い被さっていたシンヤが、真純の頭を抱きかかえるようにして目を細める。
「やっぱり初めての時は覚えてて欲しいしね」
 真純はドキリとして問い返した。
「なんで初めてだってわかったの?」
 匂いでもするんだろうか? シンヤは少し不思議そうな顔をした。
「え? だってオレ、真純とはまだキスしか……あれ?」
 シンヤが眉を寄せて首をひねる。
「しまった」と思った。いずれ分かる事とはいえ、フェアリー候補である事を、自ら暴露してしまったようだ。
 いやいや、いずれって何だ、いずれって、と自分にツッコミを入れていると、シンヤも気付いたらしく、笑顔で問いかけてきた。
「もしかして真純って、オレが初めて?」
 どう言えばいいのか、返答に困る。三十も近いというのに未だフェアリー候補とは、二十歳の若造からしてみれば、呆れるような事実ではないだろうか。
 実はキスも初めてでしたとは、とてもじゃないが言えない。しかし黙っていても、いずれはバレてしまうだろう。だから、いずれって……!
 目を逸らして悶々と考えていると、耳元で低い声が聞こえた。
「黙ってると手加減しないよ」
 咄嗟に声のした方へ顔を向ける。目の前でシンヤが、意地悪な笑みを浮かべ、首筋に手を滑らせた。
 真純は思わず首をすくめる。そんな事にはお構いなしに、パジャマの中に侵入した手は、鎖骨を撫でて肩を掴んだ。
 撫でられたのは首筋と鎖骨なのに、背中の真ん中から太股の裏側辺りまで、ゾクリと妙な感覚が走り、真純は大声で叫んだ。
「は、初めてだから!」
 シンヤは手を離し、嬉しそうな顔で真純を抱きしめた。
「やっぱりそうなんだ。反応も超かわいい」
 小馬鹿にされているような印象は否めないが、てっきり呆れられると思っていたので、この反応は意外だった。
「じゃあ、今から記念すべき初めてを体験するんだね」
「い、今から?!」
 慌てて逃れようとするが、ガッチリ抱きしめられていて身動きが取れない。
 すでに日は昇り、カーテンは引いてあるものの、部屋が妙に明るいのも落ち着かない。
 記念すべきと言うからには、もう少しシチュエーションを考えてくれても、と変に冷静に考えている間に、シンヤの顔が近付いて来た。
「だって、一晩中生殺しな目に遭って、オレもう我慢限界。ごめん。手加減無理かも」
「えぇ?!」
 ウソつき! と言う前に唇を塞がれた。
 いきなり激しく深く口づけられ、真純の身体は次第に熱を帯びていく。おまけにシンヤの温もりと重みは、なんだか心地よかった。
 酸欠と熱で意識がぼんやりとし始め、真純の身体から力が抜けていくと、肩を掴んでいたシンヤの手がパジャマのボタンにかかった。
 その時、枕元の目覚まし時計が、けたたましいアラームを鳴り響かせた。シンヤは唇を離し、ピタリと動きを止める。
 真純は荒い息を吐きながら、鳴り続けるアラームをぼんやりと聴いていた。
「あーっ、もう!」
 突然シンヤが苛々したようにわめきながら、叩くようにしてアラームを止めた。そしてそのまま身体を離し、隣にごろんと仰向けに転がる。
 重しがなくなったので、真純は身体を起こした。
 目覚まし時計が鳴っただけで、あっさりと退いたシンヤが意外で、じっと見つめる。
 シンヤはふてくされた表情で、吐き捨てるように言った。
「これからって時に、タイムアップかよ」
「タイムアップ?」
「真純のタイムスケジュールを狂わせたら、ごはん抜きなんだろ? それはイヤだし」
 相変わらず妙なところで律儀なシンヤに、真純は思わず吹き出した。
「笑わなくてもいいじゃん」
 不愉快そうに顔を背けて、シンヤは口をとがらせる。
 少ししてシンヤは、大きく息を吐き出しながら身体を起こした。
「ま、いっか。ゆうべ真純さんの本音が聞けたし」
「真純さん」に戻っている。どうやら散歩に行っていた犬が、帰ってきたらしい。
 それはさておき、ゆうべという事は、まだなにか恥ずかしい事をやらかしていたのだろうか。
「本音って何?」
 ドキドキしながら尋ねると、シンヤはイタズラっぽく笑った。
「僕がいない間、寂しかったんでしょ?」
 含みのある言い方に、何を言ったんだか全く記憶にない真純は、益々動揺する。
「別に、そんな事……」
 しどろもどろに否定すると、シンヤはからかうような笑顔で顔を覗き込んだ。
「またまたぁ、素直じゃないよね。酔った時は素直なのにさ」
 動揺は不安に変わり、真純はシンヤに詰め寄る。
「もったいぶらずに教えてよ! 私、何を言ったの?」
「僕が部屋を出て行こうとした時、どこにも行かないで、ずっと側にいてって、半泣きで縋り付いてきたんだよ」
 恥ずかしすぎる!
 あまりの恥ずかしさに、再び顔から火を噴きそうになっていると、シンヤにフワリと抱きしめられた。
「大丈夫だよ。もうどこにも行かない。ずっと側にいるから」
 シンヤの腕の温もりに、テンパっていた心が次第に静まっていく。
「……うん」
 小さく頷いて、真純はぎこちなくシンヤの背中に腕を回した。
 シンヤはクスリと笑い、ギュッと真純を抱きしめた。



(完)



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