彼女の本気と俺のウソ

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 朝から元気な声で挨拶をしながら、夏服の生徒たちが、三々五々と校門をくぐり抜けていく。
 俺は校門の脇に立ち、挨拶を返しながら、彼女たちの服装、持ち物、髪型などを抜け目なくチェックする。
 今日は朝の抜き打ち風紀検査、彼女たち曰く通称”門立ち”の日だ。
 月に数回、不定期的に、教員数名が校門の内側に立ち、やって来た生徒の風紀検査を行うのだ。
 教員は外から見えない位置に立っているとはいえ、先に通過した生徒が携帯メールで知らせるので、チェックに引っかかる生徒はあまりいない。遅刻してきた生徒が、遅刻を注意されるくらいだ。
 チェックそのものよりも、生徒たちへの牽制の意味合いが強い。
 俺の勤務するこの学校は、私立の商業女子高校で、中学生が高校受験の時、滑り止めとして受験する高校だ。そのため、学力は他校に比べ、高いとは言えない。
 生徒の卒業後の進路は、商業系の短大や専門学校に進む者もいるが、大半は地元の中小企業や地方銀行に就職する。
 学力では劣るので就職試験を勝ち抜くために、ありとあらゆる資格を取らせる。そして、面接で好印象を与えるように、風紀やマナー、規律には特に厳しい。
 その甲斐あってか、取得資格が多く、愛想がよくて礼儀正しい我が校の生徒は、大手百貨店や銀行の窓口業務などの接客業で受けがいい。
 そんな就職率の高さを誇る学校では、俺の担当教科、化学はあまり重要視されていない。元々、女子高校生に好かれる教科ではないと思っている。
「きゃーっ、氷村(ひむら)先生ーっ」
 奇声を発して手を振りながら、数名の生徒が俺の前を駆け抜けて行った。俺は笑顔で彼女たちに手を振り返す。営業スマイルも板に付いてきた。
 担当教科の人気はないが、俺自身は全校生徒の人気者だ。
 俺だけではない。数学の藤本先生も、簿記の森先生も人気者だ。つまり、二十代独身男性教員は、みんな人気者なのだ。
 これまで四半世紀の人生に於いて、不特定多数の女性に好意を寄せられた経験など皆無な俺は、最初は酷くとまどい、少し嬉しくもあった。
 だが、事情が分かった今となっては、呼吸をするのと同じくらい、ごく自然な事と割り切っている。
 風紀に厳しい我が校は、当然ながら男女交際にも厳しい。
 放課後の校門前には男性教員が数名見張りに立ち、他校の男子生徒がうろついていたら追い払う。
 男子禁制を守るためかどうかは不明だが、学園祭も体育祭も平日に行われるため、他校の生徒はやって来ない。共働きの家庭では、親でさえ来ない事が多いのだ。
 稀にやって来た強者は「学校はどうした」と門前払いを食らわされる。
 女ばかりの空間に閉じ込められ、異性との出会いの機会を極端に制限され、恋に恋する年頃の彼女たちが、身近な若い男を相手に、疑似恋愛に走るのは当然だろう。
 そう、疑似恋愛だ。
 彼女たちの好意を本気にしてはいけない。その証拠に、彼女たちは卒業した途端、憑き物が落ちたように俺の事なんか忘れる。
 就職先で本物の恋愛を体験し、早々に寿退職する者も少なくないと聞く。
 廊下を歩けば携帯電話で写真を撮られ、バレンタインデーには山のようにチョコレートを貰い、俺は芸能人か! と自分にツッコミを入れる。
 そして事あるごとに生活指導の大久保先生から「くれぐれもマチガイを起こさないように」と釘を刺されるのも、最早日常の一部となっていた。
 校門での風紀検査を終え、職員室に戻ろうとしていると、廊下で生徒に声をかけられた。
「氷村先生ーっ、こっち向いてー」
 俺は反射的に笑顔を向ける。どうせ撮られるなら、間抜けな顔は撮られたくない。
 すかさずシャッターが切られ、彼女は満足そうに微笑んだ。
「ありがとう、先生。大好き」
「こらーっ! ホームルームが始まるぞ。教室に入りなさい!」
 俺の後ろから大久保先生が怒鳴ると、「すみませーん」と叫びながら、彼女は自分の教室に向かって駆けて行った。
「ったく! 氷村先生も、もう少し毅然とした対応をお願いしますよ」
「はぁ、すみません」
 ブツクサ言いながら職員室に入る大久保先生に頭を下げ、俺は遠ざかる彼女の後ろ姿を見送った。
 挨拶代わりに「大好き」と言う彼女は、三年生の堤彩女(つつみ あやめ)。クラスは知らない。
 俺は彼女の担任になった事もないし、化学の授業は二年生の時しかないからだ。
 ショートカットのよく似合う、明るく元気な子で、本人曰く、彼女は写真魔だ。
 とにかくなんでも写真に撮りたがる。
 一度強制的に見せられたが、友達のペンケースの模様とか、ペットボトルのフタとか「かわいいでしょう」と訊かれても、返答に困るようなものが、彼女の携帯電話のデータフォルダには大量に保存されている。
 堤を個体認識したのは、彼女が二年生の時だ。
 俺の授業中、突然シャッター音が鳴り響いた。
 授業中に携帯電話を使ってはいけない規則になっている。だが退屈な化学の授業中に、メールの電波が飛び交っている事くらいは想像がつく。
 それは黙認するとしても、さすがに音が聞こえては看過できない。
「今、写真撮った人、起立」
 授業を中断して声をかけたが、当然のごとく誰も立たない。
 クラス中がクスクス笑いに包まれ、チラチラと送られる視線を辿れば、容易に犯人の目星は付いた。
 俺は席表で名前を確認し、教卓に両手をついて堤を見据える。
「授業中にケータイ使ったらいけない事になってるだろう。誰だか分からないから、全員のケータイ没収」
 一斉に沸き起こるブーイングの中、堤が席を立った。俺の視線にバレている事を悟ったのだろう。
「先生、あたしです」
 ブーイングが止み、クラス中が堤に注目する中、俺は彼女に歩み寄った。
「かして」
 堤が握りしめた携帯電話を、半ば強引に奪い取る。すると彼女は、俺の腕を掴み、必死な表情で懇願した。
「ごめんなさい、先生。もうしないから、没収しないで」
 俺はひと息嘆息すると、交換条件を提示する。
「OK。俺の出す問題に答えられたら、返してあげよう」
 途端に堤は泣きそうな顔になった。
「え、化学?」
「当たり前じゃないか」
 俺を何の教師だと思っているんだ。
「問題! 硫酸の元素記号を答えなさい」
「硫酸?」
 堤は不安げに目を泳がせた後、黒板に目を移す。そこには硫酸の化学式が書かれていた。
 少し見つめた後、彼女は項垂れて、か細い声でつぶやいた。
「わかりません」
 俺は堤の目の前に携帯電話を差し出す。
「正解」
「え?」
 堤は携帯電話を受け取り、目を丸くして俺を見上げた。
「硫酸は元素じゃない。元素記号なんか俺にもわからない。だから正解」
 堤に背を向けて教壇に向かう途中、背後で「よかったね、堤」という小声のエールが聞こえた。
 それを聞きながら、俺は内心大きく落胆する。
 ちっともよくないだろう。黒板に目をやりながら、そこに書かれた硫酸の化学式がわからないなんて。授業をさっぱり聞いてないってことじゃないか。そう思うと、言いようのない虚しさを覚えた。
 その日以来、堤は校内で俺のストーカーになった。



 放課後、化学準備室で薬品の点検をしていると、突然入口の扉が開いた。
「氷村先生ーっ! いた!」
 姿を見なくても誰だか分かる。俺は礼儀に厳しい学校の教師として、一応注意してみる。
「こら。ノックと挨拶は?」
 堤は首をすくめて「失礼しまーす」と言いながら扉を後ろ手で閉め、笑顔で駆け寄ってきた。
「走るな。ここは劇薬もいっぱいあるんだぞ」
 両手を腰に当て、堤は胸を張って言う。
「愛があれば劇薬なんて怖くないのよ」
 何が愛だ。思わずため息が漏れる。
 いつも化学は赤点追試組だった堤が、覚えているのか気になったので、ちょっと実験してみる事にした。
「劇薬が怖くないなら、おもしろいものを見せてやろう」
 俺は薬品棚から、二つの薬ビンを取り出して堤に見せた。
「塩酸と水酸化ナトリウム、どちらも劇薬だ。知ってるな?」
「うん」
「この二つを混ぜ合わせたら、何が出来るかわかるか?」
「うーん」
 堤は薬ビンを見つめたまま、うなった。少しして得意げに答える。
「劇薬と劇薬で超劇薬」
 思わず吹き出しそうになる。まさかとは思ったが、やはり覚えていないようだ。結構インパクトのある実験なんだが……。
「じゃあ、実際に混ぜてみよう。ここじゃ危ないから、向こうに行こう。戸を開けてくれないか」
「うん」
 堤に戸を開けてもらい、二つの薬ビンを持って隣の化学実験室へ移動する。
 机の上に薬ビンを置き、ビーカーを三つ並べると、二つのビーカーにそれぞれの薬品を10mlずつ注いだ。
 堤は机を挟んで正面の椅子に座り、珍しそうにその様子を眺めている。
「混ぜるぞ。よく見てろ」
「煙とか出たりしない?」
 堤は身を引いて口を両手で塞ぐ。
「有毒ガスは発生しない。いくぞ」
 二つのビーカーから真ん中に置いたビーカーへ、同時に薬品を注ぎ込む。どちらの薬品も混合液も無色透明なので、見た目に変化は現れない。
 少しの間混合液をガラス棒でかき混ぜ、俺は笑顔でビーカーを堤の前に差し出した。
「超劇薬が出来たぞ。舐めてみろ」
 堤は顔をしかめて、のけぞる。
「絶対、イヤーッ!」
「大丈夫だ」
 俺が更にビーカーを差し出すと、堤はゆっくりと身を乗り出して、ビーカーを覗き込んだ。そして、上目遣いに俺を見つめる。
「指が溶けたりしない?」
「しない」
 堤は人差し指を素早くチョンと液につけ、恐る恐る舌先に乗せた。
 次の瞬間、彼女の目は一気に見開かれた。
「しょっぱい! 何、これ。塩水?」
 予想通りの反応に、思わず頬が緩む。
「おもしろいだろう?」
「劇薬と劇薬で、なんで塩水?」
「塩酸は酸性で、水酸化ナトリウムはアルカリ性。化学反応で中和されたんだ。化学反応式を見たら一目瞭然だぞ」
 俺は黒板に化学反応式を書く。


   HCl  +  NaOH    →    NaCl  +  H
   塩酸   水酸化ナトリウム      塩化ナトリウム    


 式を見ても堤はピンと来ていない。俺は各元素記号を丸で囲み、矢印で繋いで見せた。
「ほら。Hが二つ。Clがここ。Naがここ。Oがここにある。それぞれの薬品の元素がバラバラになって、別の組み合わせに変わったんだ」
「あ、ホントだ」
 堤が納得したのを確認して、俺は黒板を消した。
「実験終了。用がないなら、さっさと帰れ」
 ビーカーを片付けながらそう言うと、堤は椅子を蹴って立ち上がった。
「用ならあるよ!」
「なんだ?」
 手を休める事なく、片手間に問いかける。目が合うと、堤は少し逡巡した後、小声でつぶやいた。
「先生と二人きりで話がしたかったの」
「じゃあ、もう気が済んだだろう。ほら、片付けるから外へ出ろ」
 薬ビンを持って促すと、堤は真顔で叫んだ。
「あたし、先生が好きなの!」
 あまりに真剣な表情に一瞬ドキリとしたが、この手の告白は本気にしてはいけない。
 以前にも何人かそんな生徒はいたが、のらりくらりと躱している内に卒業し、それきり音沙汰がない。
 極めて冷静に対処する。
「知ってるよ」
 堤は一瞬驚いたように目を見開くと、すぐに嬉しそうな、はにかんだ笑顔を見せた。
「知ってたんだ」
「あぁ。だっておまえ、毎日、挨拶代わりに言ってるじゃないか」
 途端に堤はふくれっ面になる。分かりやすい子だ。
「そうだけど……本気なの!」
 それは勘違いだ。
 堤は再び、真剣な眼差しを俺に注ぐ。
「先生は? 答を聞かせて」
 俺の答なんて、聞かなくても分かるだろうに。
 堤は生徒で、俺は教師だ。俺が彼女に対して、恋愛感情は元より、好き嫌いの感情を抱いてはならない。
 俺は少し笑みを浮かべると、意地悪く堤に言う。
「いいよ。俺の出す問題に答えられたらね」
 堤は不服そうにわめく。
「えーっ、またぁ? 先生、そればっかり」
 そればっかりって、去年に一回しかやってないと思うが――。
「授業を聞いていれば分かる簡単な問題だ。とりあえず、こいつを片付けさせてくれ。劇薬を持ったままじゃ、俺も落ち着かない」
 薬ビンを掲げてみせると、堤はブツブツ言いながら、出口へ向かった。



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