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3.



 夏休みが終わり二学期になると、就職試験に向けて校内は慌ただしくなる。
 俺は今年、三年生の担任ではないし、化学は就職試験には関わりのない教科なので、完全に蚊帳の外にいた。
 堤はあれからパッタリと、俺につきまとうのを止めた。たまに姿を見かけると、笑って手を振る程度だ。携帯電話で写真を撮る事もない。全く無視されているわけではないが、何となく寂しく感じた。
 時々廊下で「先生」と呼ぶ声が聞こえて振り返ると、堤が数学の藤本先生を呼び止めている姿を、最近はよく目にする。俺に脈がないと悟って、乗り換えたのだろうか。
 だが藤本先生も、道を踏み外す事はないだろう。生徒たちには内緒になっているが、彼には現国の井上先生がいる。堤にも、いずれ分かるだろう。
 そろそろ就職試験が始まろうかという頃、職員室が大騒ぎになった。
 国立大学の理系を受験する者が現れたというのだ。
 我が校の生徒は、大半が就職する。進学する者も、私立の商科大学か、商業系女子短期大学だ。そのため商業科目の教育に重点が置かれている。普通科目の教育は必要最低限で、国立大学入試に通用するようなものではない。
 その無謀な挑戦者が、堤だと知り酷く驚いた。
 堤は決して頭は悪くない。化学の成績は酷かったが、就職三教科、国語、数学、英語の成績は、かなり優秀なようだ。毎回貼り出される就職模試の結果、上位50名の中に必ず名前があった。
 就職模試を受けているから、てっきり就職するものと思っていた。
 担任教師も進路指導担当も、ふざけるなと一喝したらしいが、本人はいたって真面目だという。
 センター試験を受ける者も、我が校では初めてらしい。
 堤は何かやりたい事を見つけたのだろう。他の教員たちは皆、どうせ失敗するだろうと笑っているが、俺は堤なら、見事にやり遂げるような気がしていた。
 堤は受験勉強が忙しいせいか、益々俺から遠ざかっていった。



 季節は移ろい春になり、卒業式の日がやって来た。今日で堤も、この学校を去る。
 式が終わり、体育館から校舎へ戻ろうとしていると、久しぶりに聞く声が俺を呼び止めた。
「氷村先生ーっ」
 卒業証書を持った堤が、笑顔で手を振りながら駆け寄ってくる。この笑顔を見るのは、何ヶ月ぶりだろう。
 側まで来た堤は、俺の姿をしげしげと眺めて、ポケットから携帯電話を取りだした。
「先生のスーツ姿って珍しいから、写真撮らせてね。ちょっとこれ持ってて」
 そう言いながら俺に卒業証書の入った筒を押しつけ、数歩後ろに下がった。
「おい。これじゃ俺が卒業したみたいじゃないか」
「いいから、笑って」
 言われて、ついつい笑顔を作る。妙な条件反射が身についてしまったものだ。
 堤は撮った写真を、満足そうに眺めて言う。
「白衣もいいけど、やっぱ、スーツ姿かっこいーっ」
 見慣れないから、新鮮なだけだろう。
 俺は側まで歩み寄り、卒業証書を差し出した。
「ほら。卒業おめでとう」
「ありがとう」
 堤は携帯電話をしまい、それを受け取る。
「おまえが国立受けるって聞いて、びっくりしたよ。手応えはどうだ?」
「うーん。微妙」
「そうか。受かるといいな」
「うん。お祈りしてて」
 堤はにっこり微笑んだ後、名案を思い付いたように両手を合わせた。
「そうだ、先生。お守りにするから、第2ボタンちょうだい」
「もう試験は終わったんだろう?」
「うん。だから後は神頼みなの。先生のボタン御利益ありそうだし」
 理系ってとこしか繋がりはないような気がするが、事後に御利益って期待できるんだろうか。
「なんで第2ボタンなんだ。そういうのは学生同士でやるもんだろう?」
「女同士でやったって、虚しいじゃない」
 バレンタインデーに女同士で、チョコレートの交換をしていると聞いたけどな。
 ――という事は、そういう意味も含んでいるのか。卒業式に好きな人の第2ボタンを貰うという、一種の告白。学生の時、そんな申し出を受けた事は一度もなかった。
 堤の俺に対する想いは、てっきり冷めてしまったものだと思っていたので、意外だった。
「藤本先生じゃなくていいのか? よく一緒にいただろう」
 堤はキョトンと首を傾げる。
「なんで藤本先生? 藤本先生には数学を教えてもらってたの。積分とか、ほとんど授業でやってないし」
 そう言った後、堤はイタズラっぽい笑みを浮かべて、上目遣いに俺を見つめた。
「もしかして、ヤキモチ?」
 俺は堤の額を、手の先で小突く。
「バーカ」
 ちょっと図星だった。
 俺は上着のボタンを外して、堤に差し出した。
「いいよ。持って行け」
「わーい」
 嬉しそうに笑いながら堤は、鞄の中からソーイングセットを出して、俺の上着を手に取る。そして上から二つめのボタンを縫い付けた糸を、小さなハサミで切り始めた。
 ハサミが小さいせいか、作業は難航している。
 目の前にある堤の頭を見下ろしながら、閉じ込めておいた邪な想いにとらわれた。校門をくぐれば、堤はもう生徒ではなくなる。俺が好きだと告げたら、堤はどうするだろう。
 自然と手が伸びて、堤の頭を撫でていた。
 切り離したボタンを持って、堤が不思議そうに俺を見上げる。
「先生?」
 俺はゆっくりと手を下ろし微笑んだ。心とは裏腹な言葉が口をついて出る。
「元気でな」
 ボタンを握りしめて、堤は元気に頷いた。
「うん。先生も元気でね。ありがとう。大好き」
 久しぶりに聞いた「大好き」を最後に、堤は俺の前から去っていった。
 そして数日後の合格発表で、堤は我が校の伝説になった。



 堤が卒業し、俺はいつもの日常を繰り返しながら、いつの間にか3度目の春が過ぎていた。
 堤も例に漏れず、卒業後は一度も俺に連絡をよこさない。
 あの頃見つけたやりたい事に打ち込んでいるのか、大学生活を楽しんでいるのか、どっちにしろ踏みとどまって正解だったという事だろう。
 それでも時々、あの頃抱いた想いと共に、堤の事を思い出す。彼女ほど強烈に印象に残る生徒は、後にも先にもいない。
 そのせいか俺は未だに独身で、あの頃に比べて多少落ち着いたものの、相変わらず全校生徒の人気者だった。
 校門での風紀検査を終えて職員室に戻ると、教頭先生が女性を従えて俺を待ち構えていた。先日話のあった教育実習生だろう。
 我が校は時々、堤の進学した国立大学から、教育実習生がやって来る。大概は商業科目の実習生で、化学の実習生は珍しい。
「氷村先生はご存じですよね。あの堤さんですよ」
 そう言って教頭先生から紹介された時は、声も出ないほど驚いた。
 髪を伸ばして化粧をした堤は、面影はあるものの随分と大人びて、そして輝くほど綺麗に見えた。
 挨拶を済ませ、教頭先生が立ち去ると、堤は俺の顔を見て小さく吹き出した。
「先生、そんなに驚いたの? 目と口、開きっぱなし」
 堪えきれないといった様子で、堤はクスクス笑い始めた。その仕草も随分大人っぽい。
 理系に進んだ事は聞いていた。それだけでも驚いたのに――。
 俺もつられてクスリと笑う。
「まさかおまえが化学の教師を目指すとはな。おまえの高校時代の成績知ったら、生徒が不安になるぞ」
 堤は少し眉を寄せて、俺を軽く睨む。
「そんな事ないわよ。あんな成績でも、頑張れば出来るんだって、励みになるでしょ?」
「そういう見方もあるか。でも、どうして教師になろうと思った?」
 素朴な疑問をぶつけると、堤は淡く微笑んで俺を見つめた。
「最初はすごく不純な動機。先生の側にいられるには、どうしたらいいか考えたの。そして生徒でダメなら先生になればいいんじゃないかって思って。それに先生、いつもガッカリしてたって言うから、化学の苦手な子が化学の教師になるまで登りつめたら、最高に喜ばせる事が出来るんじゃないかって、単純な思いつきなの」
 改めて言われてみると、俺は随分心ない事を堤に言っていたようだ。
「酷い事言ったんだな、俺。悪かったよ」
「いいの。感謝してるから。だって先生の言った通りだったもの。分かってみると化学っておもしろいから。
――って、私と同じような子に知ってもらいたいの。今はそれが理由」
 一途なひたむきさは、あの頃と変わらない。堤ならきっと、俺なんかより立派な教師になれるだろう。
 突然堤がイタズラっぽい笑みを浮かべて、俺を上目遣いに見つめた。この表情は俺にとって、不測の事態を意味する。少し身構えると、堤が口を開いた。
「どうせなら、本来の目的も達成したいんだけど。先生の側、まだ空いてる?」
 なんだ、そんな事かとホッとした途端、あの頃の想いが蘇る。蘇った想いは止めどなく溢れ出し、嬉しくて思わず頬が緩んだ。
「おまえのために、空けておいた」
 おまえのせいで空きっぱなしだった、とは口が裂けても言ってやらない。
 堤は一瞬、驚いたように目を見開いた。そしてすぐに、再びイタズラっぽく笑うと、
「私の本気、やっと分かってくれたのね」
そう言って、片目を閉じた。
 かつての教え子のイタズラなウインクは、確実に俺の胸を撃ち抜いた。



(完)


※化学反応式は、通常「=」ではなく「→」で表記します。ですが、作中会話文の中では便宜上「=」で表記しました。
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