白い金の輪

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1.



「愛していたよ、おまえだけを。生涯惚れた女は、お母さんだけだ」
 そう言って私の手を握り、夫は穏やかに微笑んだ。
 この人がこんな風に優しく私に触れ、こんな風に笑うのを見たのは何十年ぶりだろう。
 いや、元々この人は優しい人だ。
 私は重ねられた夫の手を、しげしげと眺める。無骨な手が随分軽く感じられる。布団からはみ出した腕も、細くたるんでいた。
 お互い老いたなと、改めて思う。
 カーテンで仕切られた狭い空間に、うっすらと射し込む暁光が、達観したような夫の顔に死の影を落としていた。
 なぜ今になって、こんな事を言うのだろう。愛されていると思った事は一度もなかった。
 この人は、男に裏切られた私を憐れんで、一緒になったのだと思っていたのだ。
 真面目で実直、それだけが取り柄のつまらない男。私が断れば、他に嫁の来手はない。そうやって夫を蔑んで、私は憐れでもかわいそうでもないのだと、自分に言い聞かせて嫁いだ。
 戦後とは名ばかりで、まだ国中が貧しかった時代の事だ。
 当時の私は山間の村で、家族と共に近所の農家を手伝いながら暮らしていた。
 八人兄弟の長子として生まれた私は、幼い頃から兄弟の面倒を見るのが忙しく、学校もろくに行っていない。かろうじて読み書きと計算が出来る程度で、学のない私に出来る仕事など、家の手伝いくらいしかなかった。
 いずれは近所の農家の三男坊にでも、嫁ぐ事になるのだろう。
 大して希望もないけれど、さして不幸でもない。平凡な日々を漫然と繰り返していた時、
私は”彼”に出会った。
 家の遣いで町へ向かうバスの中、偶然隣に座ったのが彼だった。山間の村から町へと続く単調な道のりに退屈して、ぼんやりしている私に彼は親しげに話しかけて来た。
 二枚目俳優によく似た陽気で明るい彼に、私は一目で虜となった。
 家に帰っても彼の事が忘れられず、気が付けば家出同然に飛び出して、町へやって来た。
 バスの中での会話を頼りに、彼の家を探し歩く。日が暮れかかる頃、ようやく彼の営む小料理屋を探し当てた。
 彼は始め少し驚いたようだったが、快く私を迎え入れてくれた。私は店の奥にある彼の家で、店を手伝いながら彼と暮らし始めた。
 このまま彼と二人で幸せな生活が続くと信じていたある日、彼がまだ十代だと思える少女を一人連れて帰った。
 身よりもなく行く当てのない少女を、彼は家に置く事にしたと言う。
 私の時と似ている。私も家に居場所がないと言って、彼に縋った。
 薄々感付いてはいたが、彼は整った容姿と人当たりの良さで女を引きつける。そして来る者を拒まない。
 突然転がり込んできた少女は、若い事を理由に何も出来ないと主張して、店の手伝いも家の事も一切しない。
 少しは何か手伝うように言うと、まるで私がいじめているかのように彼に告げ口をする。そして彼のいないところで、私に悪態をついた。
 私が少女を煙たく思っているように、彼女も私が邪魔なのだろう。
 彼に訴えても、子供のやる事にいちいち目くじら建てるなと、取り合ってくれない。
 少女は若い事を武器に、わがまま放題で私を追い詰め、その若さで夜は彼を独占した。
 ふすま一枚で隔てられた隣の部屋で、毎夜のように少女が、これ見よがしに嬌声を上げる。
 とうとう耐えられなくなった私は、雨の夜雨音に紛れて、彼の家を飛び出した。
 家出同然に出てきた生家には戻れない。私は町の近くにある村に住む伯母を頼った。
 深夜ずぶ濡れで訪れた私を、伯母夫婦は何も聞かずに迎え入れてくれた。
 翌日伯母から、両親が探していた事を知らされた。私は仕方なく家に戻れない事情を話す。
 話している内に涙が溢れて止まらなくなった。私は彼に裏切られたのだ。
 いや、そうじゃない。彼は元々そういう人だ。私に見る目がなかったのだ。
 子供のように泣きじゃくる私を、伯母は優しく慰め、家には一応連絡するが、気持ちが落ち着くまで、ここにいていいと言ってくれた。
 伯母夫婦には子供がいない。けれど決して裕福なわけではない。食いぶちがかさめば、それだけ家計に負担が掛かる。
 家計の足しになる仕事を何も出来ない私は、せめてもの恩返しに家事を率先して手伝った。
 伯母の家に身を寄せてしばらく経った頃、伯母が縁談を持ちかけてきた。相手は近所に住む若者だという。
 体のいい厄介払いだと思った。
 嫌なら断ってもいいと言われたが、居候の私に断る権利はない。
 言われるままに見合いをし、その後何度か二人で会った。
 未だに彼への未練を引きずっている私は、どうしても彼と比べてしまう。
 近所の山で木こりをしているその人は、日焼けして荒れた肌が手も顔も傷だらけ。おまけに無愛想で口べたなため、話しても会話が続かない。
 華やかな町で客商売をしている社交的な彼に比べて、かなり見劣りした。
 真面目で実直、それだけが取り柄のつまらない男。けれど何も持たない私には、お似合いかもしれない。
 現実はこんなものだ。彼と過ごした日々が、一時の夢だったのだ。農家の三男坊が、木こりの若者に変わっただけだ。
 諦め気分の私が嫌な顔もせず、誘われるままにその人と何度も出かけているうちに、とんとん拍子に話は進んだ。
 そして私は、その人と結婚する事になった。
 彼が私を捜しているような気配は、一度もなかった。
 伯母から結婚前夜、その人が私の事情を全て知っている事を訊かされた。だからきっと優しく接してくれるはずだから、幸せになりなさいと。
 男に裏切られた傷物の娘を憐れんで、伯母に頼まれ仕方なく嫁にもらったのだと思うと、悔しくて涙が溢れた。けれど今さらどうしようもない。
 夫となったその人は、初夜の床で初めて私に触れた時、眩しそうに目を細め穏やかに微笑んだ。
 後にも先にも、夫のそんな笑顔が私に向けられたのはその時だけだ。



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