b330 テンプル騎士団の謎 レジーヌ・ペルヌー 創元社 2002
 マルタ共和国に行ったとき、マルタ騎士団=聖ヨハネ騎士団について学習した。そのマルタ騎士団と並び称されるのがテンプル騎士団であり、いずれも歴史的背景は十字軍の活躍と軌を一にし、1099年のエルサレム奪還から歴史の表舞台に登場する。イスラエル訪問の際には、テンプル騎士団が1119年に本拠としたエルサレム神殿の丘なども見た。テンプル騎士団のテンプルはこのエルサレム神殿にちなんでいる。イスラエル紀行をまとめるとき、あわせて十字軍の本も読んだが、概して騎士団の活躍にあまり触れていない。とりわけテンプル騎士団についてはその活躍ぶりにもかかわらず冷ややかな書き方であった。どうしてか?。
 南フランス紀行をまとめ直しているとき資料を調べ直したら、聖ヨハネ騎士団の居館がときどき出てくるが、テンプル騎士団はかつてフランス内に広大な土地や居館、莫大な資産をもっていたにもかかわらず名前が出てこない。どうしてか?。
 図書館でまさに私の疑問に答えるような「テンプル騎士団の謎」を見つけた。著者はフランス人の中世史家で、十字軍など中世に関する著書も多い。
 内容は、
騎士団の成立
剣の人教会の人 騎士団の発展
聖地の防衛
破滅への道
テンプル騎士団の最後
資料編 入会の儀式・生活の規則・聖ヨハネ騎士団とドイツ騎士団・根強い神話  からなっている。
 検証に用いられた豊富な図にはていねいな注釈が付けられていて、図を見ながら注釈を読んでいるだけでもテンプル騎士団の始まりから活躍、日々の暮らしぶり、厳しい掟、破滅の理由がよく分かる。言い換えれば、図・注釈に比べて本文は少ない。章ごとに本文を流し読みして骨子をおさえ、図・注釈で理解するといった読み方がいいかもしれない。
 さて私の疑問に直接応える部分は4章・5章になるが、2章p47封建領主によってつくられたテンプル騎士団は教会とのきずなや土地との結びつきが強く封建的な体質であったこと、3章で触れられているように主導権争いで聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団らとしばしば対立していたことなどが遠因となっている。加えて4章p70司教区に属さず専属の司祭をかかえ、1/10税を免除されるなどの特権を有していたことや、p70〜銀行業務が進展したばかりか、p74フランス王家の金も預かっていて、p75王の代わりに徴税までしたことがほかの騎士団や騎士、教会、各地の封建領主、民衆のねたみや反感を買ってしまったようだ。
 時のフランス王はフィリップ4世で、フィリップ4世の働きかけで新教皇にフランス人クレメンス5世が選出され、クレメンス5世はフィリップ4世の意向を受けてアヴィニョンに教皇宮殿を移してしまう。
 5章では、テンプル騎士団を廃絶しようとするフィリップ4世に押し切られたクレメンス5世が、異端審問の結果、テンプル騎士団を火刑に処してしまう経過が詳述されている。テンプル騎士団の土地、居館、資産は没収され、その多くはフリップ4世に属し、一部は聖ヨハネ騎士団に委譲された。
 話が飛ぶが、アヴィニョンやアルルなどで聖ヨハネ騎士団の館が登場するが、やはりこれはもとテンプル騎士団の所領で、聖ヨハネ騎士団に譲渡されたものと考えて良さそうである。
 この本で疑問の一部を解明することができた。疑問解明の次の本が楽しみになる。(2013.6読)