b409 風の影 上下 カルロス・ルイス・サフォン 集英社文庫 2006
 スペインを舞台にした本を検索して見つけた。行きつけのK図書館で探したら、書庫入りしていた。古い本でもないのに書庫入りとは不思議だ。描写に何か不都合があるのかなと思ったりもしたが、読み通して何ら不都合は感じなかった。むしろ、バルセロナの時代背景、社会状況を織り込みながら、親子、恋人、友人、仲間の人間関係で起きる葛藤、憎悪、友情、愛を描き出し、それをミステリアスな展開で仕上げている良書と感じた。こういう本は人目に触れやすい書架に配列した方がいい。
 主人公ダニエルの住まいはバルセロナのカタルーニャ広場に近くで、ランブランス通りあたりがよく登場する・・2015年11月、ツアーでバルセロナに2泊3日滞在し、ランブランス通り+カタルーニャ広場あたりを何度か散策した・・。物語は、ダニエルが11才になった1945年から1955年のあいだの出来事と1965年のその後で構成されている。しかし、実際にはダニエルの関心を引いた謎の作家フリアン・カラックスの追憶がしばしば登場する二重構成になっている。カラックスたちの追憶は1900年代初頭、王制〜第1次世界大戦・・スペインは中立・・〜第2共和制〜そして内戦へと突入する混乱期になる。ダニエルが物心つくころに内戦が終結し、フランコが統治していた時期になる。作者カルロス・ルイス・サフォンは現代に向かって政治が激動し、社会構造と価値観が大きく変化している時代を背景に、権力の手先となり悪事を重ねる人間、権威に目がくらみ貧者を蔑視する人間、愛と友情と真実を歩む人間を登場させ、ダニエルが悩みながらも成長していく姿をドラマティック+ミステリアスに描き出している。
 物語は、ダニエルが古書店を営む父に連れられて「忘れられた本の墓場」に行き、そこでフリアン・カラックス著「風の影」と出会うところから始まる。作者サフォン氏は、ドラマティックでミステリアスな物語展開に織り交ぜて、本の意味を語っている。たとえば、上巻p15・・本の一冊一冊、一巻一巻に魂が宿っている、本を書いた人間の魂と、その本を読んでその本と人生をともにしたりそれを夢見た人たちの魂・・本が人の手から手へと渡るたびに、誰かがページに目を走らせるたびに、その本の精神は育まれ強くなっていく・・の前半は私も同感だ。後半の、本を読んだ人たちによってその本の精神が育まれていくというのは、あるとき本を読み、心が動かされる、それによって本を読んだ人は精神的に成長する、時が経ってまたその本を読む、精神の成長した読み手はさらに奥深いことに気づき、心が動かされ、さらに精神が成長する、つまり本を読んだ人によってその本の精神が成長して、という意味であろう。含蓄のある言い回しだ。
 下巻p359には、・・長い文を綴ったせいでしょう・・私はあなたのなかで友だちとしていられる・・フリアンの書いたもののなかで・・一番身近に感じていた言葉・・誰かが私たちのことを覚えているかぎり、私たちは生きつづける・・私は彼に会うまえから彼のことを知っていた気がする・・あなた=ダニエルのことも知っている気がする・・と述べている。これは、長い文、あるいは本を読むと書いた人の精神と出会う、その精神に心を動かされことで精神あるいは生き方が共鳴し合い、会うまえから知り合っていた気持ちになるという意味であろう。このことにも私は同感である。
 下巻p411には、・・本を読むという行為が・・確実に消滅しつつある・・読書は・・鏡を見るのとおなじで・・本のなかに見つけるのはすでにぼくらの内部にあるものでしかない・・本を読むとき、人は自己の精神と魂を全開にする・・と主張する。まったく私も同感である。
 ほかにもあちらこちらに本を読むことの意義を散りばめている。現代人よ、本を読み、作者の精神と出会い、自らの精神を育め、と諭しているのが、織り込まれた作者のメッセージのようだ。
 ダニエルは「忘れられた本の墓場」でフリアン・カラックスの精神に出会い、共鳴する。もっとカラックスを知りたいと思うが、なんとカラックスの正体がつかめない。カラックス探しが物語の縦糸になる。
 カラックスを知りたくて訪ねたバルセロの家で、全盲のクララと知り合い、ダニエルはクララを好きになるが、裏切られる。ダニエルの友人トマスの妹ベアトリスと再会する。ベアトリスは婚約していたが、ダニエルはベアトリスに惹かれていく。カラックス探しを進めていて、カラックスの本の出版社に務めていてヌリアに出会い、気持ちが動く。一方、ダニエルは浮浪者だったフェルミンと知り合い、信頼が芽生え、生き方を学ぶ。フェルミンはフメロという刑事部長にかつて拷問を受けたことがある。フメロは、上巻p258・・野蛮な人間は・・本能だけで行動する・・自分はいつも正しいと思い込んでいる・・自分とは別種の人間を片っぱしからやっつけていく・・人間として描かれている。この悪人フメロ、カラックス、カラックスの親友だった資産家の息子のミケル・モリネール、大財閥の息子ホルヘは、かつて同じ学園に通っていた。カラックスはホルヘの妹ペネロペと愛し合うようになり、モリネールが手助けをしてくれるが、フメロが横恋慕し、フメロはカラックスを憎み出す。こうした恋愛感情や、友情、信頼、裏切り、憎悪といった葛藤が横糸に織り込まれていく。
 あまり紹介すると本を読む楽しみが半減するから、あとは読んでのお楽しみ。ダニエルとカラックスの二重構成、カラックスの風の影がダニエルの精神を育み、共鳴したダニエルがカラックス探しを始めるという縦糸と、人間の愛、友情、信頼、憎悪の絡み合いが横糸になったドラマティックでミステリアスな本である。(2016.1読)