book450 功名が辻1〜4 司馬遼太郎 文春文庫 2005
 2017年6月に長浜を訪ねた。長浜城は羽柴秀吉(1537-1598)の築城で、1573年に完成した・・1615年の大阪夏の陣後に廃城となり、多くは彦根城に流用されたらしい、いまは天守閣を模した長浜城歴史資料館がかつての面影を偲ばせている・・。羽柴秀吉が天下取りに動いたとき、家来に山内一豊(1545-1605)がいて、1583年から長浜城の城番になっている。子どものころ、しがない武士の山内一豊が嫁のへそくりで名馬を購入し、織田信長らに認められ、ついには土佐藩の大名に出世する話を読んだことがある。子ども向けの話で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと時代が大きく動いていくことはかなり省略されていた。長浜城歴史資料館で城主一豊のパネルを見ながら、羽柴秀吉から認められ長浜城主になれたのに、なぜ徳川家康に与し土佐藩主になれたのだろうか?、内助の功の妻千代(1557-1617)はどんな人だったのだろうか?、気になった。山内一豊・千代の立身出世を主題にした大河ドラマ「功名が辻」は見なかったが、原作は司馬遼太郎(1923-1996)氏である。長浜から帰ったあと、図書館で2005年版新装文庫本4巻を借りて読んだ。
嫁の小袖 織田信長が清洲城から岐阜城に本拠を移す大移動で、馬廻役五十石の近衛士官として山之内伊右衛門一豊が登場する。ぼろぼろ伊右衛門の異名をもつが、岐阜の城下の新居に美濃では美人の評判の高い千代を嫁に迎える。千代の父は浅井家の家来で戦死していて、母と千代は母の姉の嫁ぎ先である不破一之丞に身を寄せていた。・・嫁入りのとき、一之丞は金十枚を夫の一大事のときのためにと千代に持たせた。・・新居で、一豊は千代に一国一城の主になると約束する。・・信長が諸城を落とし始める、木下藤吉郎秀吉が登場し、千代は織田第一の出頭人と見抜き、一豊は藤吉郎の配下になる。こうした時代背景、その後の予見のポイントがこの節で紹介される。
戦場 金ケ崎城開城の戦いで一豊は首を取るも重傷を負う。けがをすれば後方送りだが、さらに手柄を立てたいと、金ケ崎城に籠城し、藤吉郎、信長の目にとまり、二百石に加増される。
空也堂 くノ一登場、本筋にかかわらず。
姉川 千代は才女で、上手に一豊をリードする様子が描写される。p111・・妻が陽気でなければ夫は十分な働きはできない、陰気な口から小言をいえば夫の心は萎えてしまう、陽気な心でいえば夫は鼓舞される、陽気の秘訣はあすはもっと良くなると思うこと、と千代の生き方が紹介されている。・・のちに秀吉が天下を取ったころ、千代が唐織りの小切れで作った小袖に秀吉が感心し、後陽成天皇に小袖を見せたエピソードも織り込まれている。・・信長の浅井・朝倉攻めで手柄を立て、四百石となる。
唐国千石 浅井討伐で功績のあった藤吉郎は二十二万石となる。一豊も手柄を立て、唐国千石を与えられる。千代は秀吉が長浜に城を作ることを予見し、長浜に屋敷を構えるよう一豊に進言する。ここにも千代の先見性が描かれている。
長篠合戦
乱世の奉公人
十両の馬 いよいよ千代の金十枚で名馬を買うくだりである。それを聞いた信長は、馬揃えを思い立つ。天子たちが居並ぶ前で一豊は名馬を披露、馬の見事さ=馬は武士の鑑?で信長から二百石を加増される。
二巻
鳥毛の槍 秀吉の大軍とともに、一豊は金十枚の馬にまたがり長浜を出発、高松城を囲む。馬のお陰で敵将を倒し、のちに国宝となる槍を手に入れる。・・本能寺の変が起こる。・・一豊は秀吉とともに引き返し、光秀を討つ。このときはあまり戦功はなかったが三千石に加増され、長浜城の城番になる。ところが秀吉は柴田勝家と手を結ぶため勝家に長浜城を譲り、一豊は播州に移ることになった。・・千代は秀吉の野望を見抜き、一豊に京の屋敷を願い出させ、安土城下に居を構えることになった。・・司馬氏は至る所で千代の策士ぶりをほめている。一国一城の主にふさわしいとも言い切る。一豊は律儀な武将だが、攻防の全体像を読み、差配するのが苦手な人物として描いている。
賤ヶ岳 秀吉は柴田勝家を滅ぼす。
家康 東海には徳川家康がいる。秀吉、家康の初戦は家康が勝った。秀吉は犬山城に入り、奇襲作戦をとるが、家康に知られ、大敗を喫す。一豊は乱戦のなかで金十枚の名馬を見失う。秀吉の裏工作が功を奏し、和睦する。・・一豊は七千石に加増されたが、千代は内心、出世の遅さに不満・・、秀吉が関白になり、一豊は二万石で長浜城主になる・・千代は北の政所と気があう、どうやら長浜二万石は北の政所の口添えだったようだ。ところが天正地震が起き、一人娘のよね姫を失う。・・その後、子どもができず、弟の子ども忠義を養子にし一豊亡き後を継ぐ。
秀吉 聚楽第を話題に、秀吉の遊び好きと家康の実利一点張りが対比的に語られる。よね姫を失った千代も元気を取り戻し、道楽で小袖づくりに励む。北の政所は千代の小袖を喜び、聚楽第で展観させ、秀吉に一豊への加増を進言する。千代の小袖のおかげである。
春日遅々 山之内家の前に捨て子があった。拾と名付け、育てた。・・この節では触れていないが、後に出家し、京都妙心寺大通院第2代住持になる。一豊亡き後、千代は妙心寺近くに移る。・・この節では、家康とともに北条氏を倒そうと小田原攻めをする一豊が語られている。
掛川六万石 北条を倒した秀吉は、関東を家康に与え、東海道に信頼できる武将を配置した。一豊は掛川城主六万石となる。・・秀吉の跡継ぎとなる鶴丸が病死、・・朝鮮出兵が決まる。・・家康は北の守りを理由に残る。・・秀吉は養子秀次に関白を譲る。
伏見桃山 秀吉の第2夫人淀殿が秀頼を生んだので、居城として伏見城が建設された。華麗きわまる伏見城は、家康の代に解体され、遺構は社寺に寄進された。・・城跡に桃3万本が植えられ、桃山と呼ばれるようになった。桃山時代は、秀吉による華麗な文化を指す言葉になった。
三巻虫売り、淀のひと、醍醐の花見、雲満つ、東征で、狂気じみた秀吉、淀殿の横暴、秀吉最後の饗宴醍醐の花見、家康が天下取りに動き出す様子、石田三成たちが大阪に集結し家康討伐の準備に入る様子、千代たち武将夫人が大阪に人質として留め置かれ、細川ガラシャが自決する様子、千代は光成の家康討伐の回状を密かに一豊に届け、一豊は開封せず家康に渡し、家康への忠誠を表すくだりなどが物語られる。
四巻
東征(承前) 駿府城に集まり、光成との戦いを軍議する場で、一豊は掛川城、領地をすべて家康に預ける、と心からの忠誠を示す。一豊に続き、東海道筋の大名が城あけ渡しを申し出た。家康は勝利を確信する。
大戦 一豊は戦功を上げられないまま犬山城の守備隊長を命じられ、悶々とする。関ヶ原では後方になり西軍優勢で戦慄するが、歴史のごとく東軍が勝利する。
再会 大阪入りし、千代に再会する・・p140連れ添う女房の持って運の光で男の一生は左右される・・おれは当代まれな運を持っていると、一豊は述懐する。・・その一方、千代はp174男が自分の技能に自信をもったときの美しさは格別だが、自らに位階に自信をもったときは鼻もちならない、と思う。・・家康は、千代から届いた書状を開封せず渡し、軍議では居城を進呈してくれ、勝利へ導く気運をつくってくれた軍事功績に値する働きに、土佐二十四万石を一豊に与えた。いよいよ一国一城の主となった。
浦戸種崎浜は、土佐の領民がなかなか言うことを聞かず苦労するが、城を作り、都市計画を進め、いまの土佐の原型が形作られていった話が展開する。
あとがき 1605年、一豊、61才で息を引き取る。跡を養子忠義が継ぎ、土佐藩が幕末まで栄える。千代は京都妙心寺近くに移り、1617年、61才で息を引き取る。
 司馬氏は、一豊を、律儀で一途に功名を目指すが、戦局を読んで戦略、戦術を組み立てるのが苦手な男として描いている。千代は、聡明で先見性があり、手先も器用で、一豊を鼓舞する話術に長けた女として描いている。出世は遅かったが、夫婦が互いの長短を補いなうことで土佐二十四万石の城主になれた、ということのようだ。(2017.9)