「住いと暮らしを考える文化の目」
日本民俗建築学会40周年寄稿
 
 日本民俗建築学会は2000年に40周年を迎えた。比較的小さな学会であるが、柳田国男氏、今和次郎氏、竹内芳太郎氏、川島宙次氏らそうそうたるメンバーによって、学際的な、ユニークな研究活動が積み重ねられてきた。私が入会したのはそうした研究の積み重ねにひかれたからで、直接入会を申し込んだところ、紹介者がないので理事会での審議を経て、ようやく入会することができた記憶がある。以来、多くのことを学ぶことができたし、10編に近い学術論文を投稿させて頂いた。古いファイルを整理していたところ、40周年記念誌に寄稿した拙文がでてきた。すっかり忘れていたが、昔の拙文を懐かしく読んだ。それからの進歩はあまりなく反省のきっかけにしなければならないし、論旨や結論のまとめ方の拙さも気になるが、40代後半に考えていたことをお伝えしたくここに紹介する。
 
 学会創立40周年おめでとうございます。
 さて、「それぞれの専門分野の立場から40年間の活動成果を振り返り、また、50周年に向けてどのようなことを期待するか」の寄稿を依頼されました。まことに光栄の極みでありますが、40年間の成果を振り返るには荷がかちすぎ、さりとて21世紀を読み切るほどの力量をもたず、そこで、自らの研究の歩みを紹介し、寄稿に代えさせて頂きました。
 佐藤重夫会長は民俗建築第95号の巻頭言で、真実を求めようとする人としての本性が自らの内でイコルとき、建築が文化としての火を赤々と燃やすことを分かりやすく述べられている。そして、火を吹いて無理にオコス火は、瞬時の輝きを放ち人の目を奪うのだろうけれど、文化のもつ人々の美しき心の発露のないことを戒められる。
 「住居とは、人が暮らすところである」。建築に関わり始めた当初、15才のころだが、あたりまえのことと軽く受け流したこの言葉は、しかし、以来30年、繰り返し、私にその意味を問いかけてきた。
 建築を訪ねその空間の情念に接するとき、集落を訪ね古老と語るとき、先輩諸氏の文献をひもときその優れた知見に接するとき、「住居が人とともに生きる」ことの真の意味を、あるいは「人は住居によって生きられる」ことの真実を示唆し続ける。佐藤会長のことばを借りれば、私の内で絶えることなく「イコリ」続けてきたといえる。
 大学では、恩師清家清先生の影響を強く受け、これは先生のもとで学びたいと門を叩いたのだから当然といえば当然のことなのであるが、やすらげる住まいを工学的に明らかにしようと、住居における居住快適性の人間工学的研究を卒業研究の主題とした。人間活動に関わる様々な諸条件を捨象し活動量にのみ限定することによって、活動量を最小とする平面計画の検討が可能になる、これが私の仮説であった。活動量を最小にしようとする平面計画の検討は、工場や病院、調理室などにおける機能性や作業性の点で重要な課題である。住居の快適性を考えるとき、第1に活動量による平面計画の検討がされねばならない。私の力説をにこやかに聞かれてから先生は、やすらぎや居住快適性は機能性や作業性によってのみ獲得されるものではなく、むしろ捨象した様々な諸条件を考えねばならないことを、「ハウス」と「ホーム」の話に変えて諭してくれた。つまり、住居は家庭と不可分なものであり、暮しの全体をとらえない限りやすらぎや快適性は論じられないこと、例えば、床の間の象徴性や玄関の格式性は機能性や作業性の点からは無用になってしまうが、ゆとりのある暮しや社会との関係では大変重要な空間であること、そのことは住居と暮しを文化としてとらえようとしない限り見えてこないことを暗諭して頂いた。
 漠然として理解していた、住居と暮し、「住居は人によって生きられ、人は住居によって生きられる」こと、それは文化の目によって始めて見えることの教えである。
 敷衍するならば、住居=建築、暮し=民俗は不可分であり、そして、それは歴史的な人々に共有される文化として在ることを意味する。
 伝統的な建築のもつ有形文化財としての価値、建築史学的な位置づけ、社会教育的な有用性は、建築、あるいは住居単独でも評価されるところである。しかし、住居が暮しを反映して形成されること、新しい世代はその住居で暮しながら生活の様々な仕方を身につけ、そして、住居の更新にあたってその暮し向きを反映することを考えれば、住居=建築は、暮し=民俗との関係で評価されねばならない。そしてまた、暮しが常に社会の発展と連動していることを考えれば、住居=建築と、暮し=民俗は、社会背景、時代背景との関係から評価されねばならない。
 このようにして考えてくると、建築と民俗を総合的に捉えようとする民俗建築学会の先見性に改めて感じいるとともに、その総合的な見方、即ち、建築、あるいは民俗の学術的解明や文化的評価の記述にとどまらない、建築を民俗との関係で、あるいは言い換えて民俗を建築との関係でとらえよえとする学問的姿勢の鮮明さが期待されてくる。
 大学を出て当初は、都市を対象に住居と社会に関する調査を開始したが、すぐに農村を対象とする集落調査に転じた。これは、住居にしろ、暮しにしろ、都市はダイナミックな変動を続けており、より原初的な形態や様式が農村に継承されていること、言い換えれば地域に固有の文化性が顕著に捉えられること、そして何よりも自然との優れた調和と暮しに暖かさが感じられることが理由にある。また、大学で学んだ川喜多二郎先生による、実際のフィールドに立ち、体験を通してその文化を学ぼうとする文化人類学の教えも背景にある。地域それぞれの住居と暮しが固有であることは、住居と暮しを文化としてとらえることによって始めて理解し得ることであり、それは集落を訪ね、住居と暮しを実感するとき達成される。
 始めのうちは、大学のある埼玉県内の農村を対象とした。幸いにも、海こそ無いが、埼玉県は荒川・利根川の2大河川流域に広がる沖積低地と、武蔵野台地・大宮台地として知られる洪積台地、そして秩父山系の丘陵山間地と地勢構成が明快であり、立地地勢との関係で住居と暮しを検討するには好都合であった。ここでの理解を基点に、風土条件に特徴的な、地吹雪の青森、津波の伊勢、強風の御前崎、日本海に面する島根、亜熱帯の沖縄、などへと展開する。そして更に、かつての日本文化のかなめである京都と若狭湾を結ぶ街道の一つ、周山街道沿いの全集落に発展する。
 そして、住居と暮しぶりに風土条件が大きく反映していること、それは地域に固有の文化として連綿と継承されていることを得た。詳細は本旨ではないので割愛するが、簡単に記せば、一つには風土によって住居や屋敷構えを構成する素材が異なることがある。身近な素材を上手に活用しており、地域に固有の景観を作り出す要因となっている。二つには、風土によって農業作目、生業が異なり、住居と暮しに反映されることがある。例えば、沖積低地では水田経営に馬が用いられ、そのため厩や馬を中心とした生活行事が展開される。三つには、風土への対処、水害や雪、風がその作り方や暮し方に反映されることがある。例えば、沖縄では通気性とともに台風への防御が作り方の基本となり、また生活においてはニライカナイ・神あさぎなどに象徴される世界観の反映が特徴となる。これらのことは、それぞれの地域で住居の作り方と暮し方は文化として継承されること、住居と暮しは、他の文化との干渉によってその固有性を保持しつつ、発展を遂げていることを示す。
 このことに関する民俗建築学会の蓄積は大きく、再三、示唆を得た。すでに農村といえども生活と景観の変貌は急をつげており、学会におけるますますの学術的解明と記録が期待される。21世紀を迎えるにあたって、まず農村をはじめとする民家と暮らしを展望することが求められているといえる。しかし、さらにいえば、地域的な民俗建築の解明にとどまらない、それぞれの文化の相対的な関係に関する体系的な検討に着手する必要がある。文化としての独自性と、干渉による文化発展の視点である。日本民俗建築学会はじつに幅広い研究者によって構成されていることを考えれば、その力量を結集することで、50周年に向かって確実な一歩を踏み出すことが可能になろう。
 
 ということで、多大な課題を設定してしまったが、すでに50周年を過ぎた。私一人が力むことではなく、大勢の人が文化の目をもつことであると、思っている。(2003.4記)