「農山漁村集落の再建を考える」 日本建築学会2005大会・中越地震総合協議会
2005年 「農山漁村集落の再建を考える」 日本建築学会2005大会・中越地震総合協議会
 
 2005年度日本建築学会近畿大会3日目に、「中越地震=中山間地域の大規模災害が示す新たな課題」についての総合協議会が開かれた。主旨は、「国土の7割を占め、国民の7分の1が住む中山間地域の疲弊が言われて久しい。産業構造の変化や過疎化・高齢化の現実を踏まえつつ、農林水産業などに携わる住民の暮らしの問題がまず取り上げられなければならない。それとともに、これら地域が国土や環境の保全に大きな役割を果たしていることにも改めて注目がはらわれる。その中山間地域を直撃したのが中越地震による被災であり各地で起きた風水害だった。本協議会では、中越地震を中心に災害の特徴、被災後の復旧・復興プロセス等にかんする共通理解を得つつ、求められる復興、ひいてはあるべき中山間地域の将来のあり方について検討を深めたいと考える。学会員が被災と支援にかかわる知見を得ることとともに、やがて来る巨大海溝型震災等への備えに、また、建築学会が阪神・淡路大震災を契機に策定した提言の拡充にも役立つ討論を期待する」である。当日の私のレジメを紹介する。
 
中山間地域を考える立場から/新潟県中越・スリランカ・福岡県玄界島を回って・農山漁村集落の再建
 2004年10月の新潟県中越地震は震度7を記録、災害は中越の広い山間に及び各地で土石流、地盤崩落が起こり、ライフライン寸断、農用地林地崩壊、集落孤立、土砂ダムが発生した。その記憶も鮮明な12月にはスマトラ沖で観測史上4位となるM9の大地震が発生、高さ10mもの大津波がインド洋沿岸部の海岸集落、リゾート地を襲い、推定28万人の死者・行方不明者に及ぶ大惨事になった。そして3月には、福岡県西方沖で発生した地震により玄界島では震度6弱を記録、斜面立地の漁村はほぼ全戸に及ぶ損壊を受けた。近年の日本における主な自然災害を調べたところ、2004年福井豪雨、新潟豪雨、2003年十勝沖地震、2001年芸予地震、東北大雪被害、三宅島雄山噴火、2000年鳥取県西部地震・東海豪雨、有珠山噴火、1998年栃木・福島豪雨、阪神淡路大震災、1997年出水市土石流災害、1995年関川水害と、この10年で15もの大きな被害が起きている。私たちは自然災害の中に暮らしているといっても過言ではない。となれば、いかに被害を小さくし、災害後もいかに早く立ち直れるかの計画論が必要になる。中越地震を契機として建築学会に農山漁村集落における自然災害復旧支援特別研究委員会を設置、活動を起こしてまだ蓄積は少ないが、農村計画を考える立場から、話題提供をしたい。
 
1. 自然環境応答型の生活と空間構成  農山漁村は自然を生産と生活の基盤とする。地勢を読み取り、水の流れを見極め、春夏秋冬の気象にあわせ、より合理的な生産、より快適な空間構成が追求されてきた。砺波では、庄川流域の扇状地の開拓が進み広大な稲作地が形成された。人々は砺波平野に散居し、アルプスから吹き下ろす南風のフェーンから屋敷を守るために住まいを東に向け南側に杉を植えてかいにょと呼ばれる防風林とした。中越では、日当たりのいい南斜面に水利に即して棚田を築き、あるいは裏山に横井戸を掘り生活水にあてるとともにたねんぼに水を溜めて蓮田や雪解けに利用した。こうした自然環境に即した生活と空間構成は中山間に限らない。出雲では、斐伊川の流路を人為的に変えては斐伊川が押し流す土砂を堆積させて宍道湖を少しずつ埋め立て、人々は開拓された広大な新田に散居し、強い西風を防ぐために黒松を植えて剪定を加え築地松と呼ばれる防風林とした。利根川流域では新田開発に伴う新宅を洪水から守るために水塚と呼ばれる盛り土を築き、土留めと防風をかねて雑木による屋敷林を構えた。
 日本の国土の8割に近い農山漁村は、すべてこのようにその土地の自然環境を的確に読み取り形づくられてきたのである。その作り方は、自然に依拠するのではなく、自然を余すことなく用となし、自然を用いて自然を制御し、さらには美しく仕立て上げていることに特徴がある。横井戸は山の伏流水を掘り当て自然の流れを屋敷に導く仕組みであり、導水には竹を用い、横穴は木材で支えて保冷室として使い、余った水は石積み・木枠・土留めによるたねんぼに入れられる。西風を防ぐ築地松は緊張感のある形に剪定され、母屋西座敷はこれを緑の屏風とみなして鑑賞庭をつくり、築地松北隅に荒神、南隅に墓を配置して生活を演出する。本来の自然と人の手による自然が融合し、調和がつくり出されている。その作り方は、その土地の自然にかなっており、地域に共有され、文化として引き継がれてきた。その作り方は同時に循環型技術であり、地球環境への負荷がきわめて少ない。
可能な限り自然環境応答型の集落構造を保持することが、自然環境と調和した美しい日本の国土を守ることであり(新たに制定された景観法の狙いもここにある)、地域の人々に共有された文化の継承になり(世代を超えた人々が原風景によって結ばれる)、持続的な社会の形成につながるのである。
 
2.共同体的地域コミュニティ  かつて鈴木栄太郎氏は「日本農村社会学原理」(未来社1968)のなかで農村集落が10種の集団によって共同体的に結合していることを指摘した。私の1976-86年の調査でも、班・五人組・近隣・血縁・氏子・檀徒・葬式・講の8種の集団によって集落社会が複合的に結合していることをみつけている。時代により地域により集団の種類や役割は異なってくるが、一見すると住まいが自由に建ち並んでいるようにみえても、地域コミュニティは5〜10戸ほどの互助を基本にした濃密で複合的な集団により結びついている。玄界島は漁業を主たる生業とし(かつては半農半漁であった)、漁協を中心とする結びつきが強いうえに、斜面に高密集居する住まいを火災から守る消防団組織が日常的に活動し、さらに漁に出たあとの集落を守るために婦人消防団も組織されている。こうした日常的に活動する地域コミュニティがしっかりしているが故に、地震直後、近所同士で声をかけ、組長が安否を確認し、漁協・消防団が手を貸して、直ちに全員が安全な場所に避難することができた。中越の山間集落でも地域コミュニティが声をかけ、手を貸し、助け合い、集落孤立を乗り切ってきた。農山漁村集落は日常的地域コミュニティによって息づいているといえる。
 阪神淡路大震災のときの応急仮設住宅は平行配置のうえ、困っている人から優先的に入居したことで、それまでの近所の人とのつながりを失い、孤独感を深めてしまったといわれる。その後の復興住宅地でも、旧来からの地域コミュニティのまとまりへの配慮を欠いたため人間関係が希薄になったとの話を聞く。中越地震の応急仮設住宅では、集落ごとのまとまりを維持し、日常の会話がし易い対面型配置を採用、集会所を設けるなど、地域コミュニティへの配慮が功を奏している。玄界島では島に平地が少ないことから応急仮設住宅は島内と島外のかもめ広場(子どもいる家庭優先)に分かれてしまい、やむを得ないことだが活気に差が出てしまった。
人はひとりでいきられない。地域コミュニティが集落の人々を支えていること、地域コミュニティは地縁を下敷きにしつついくつかの複合的な集団を構成していることへの十分な配慮が必要である。
 
3.住民による生活再建ビジョンの作成  スリランカの被災地を回っていたとき、、PanaduraでもBalapitayaでもAkuraliyaでもGalleでも・・・Hambantotaでも、要するに訪ねたほぼすべての場所で、まず津波は怖い・家族を失った・悲しい、次いで政府が何もしてくれない・義援金はどこにいった?、そして家が欲しい・仕事がない・将来が不安、の声を聞いた。このことは、津波を地震や自然災害に置き換えると日本の被災地再建に大きな示唆を与える。まず安心安全の確保である。スリランカでは海岸線100mを建設禁止区域にしたが、理にかなっていない。津波の高さが問題であり、標高で危険区域・準危険・安全区域などを示すべきだろう。同時に災害マップ(あるいは安全マップ)や安全な避難場所の確保とサインを示すべきである。また、生活の不安を聞いたり、心のケアができる相談員・専門家の派遣が必要である。
 一方、行政は災害や再建にかかわる情報を住民に公開するとともに、住民と将来展望について話し合わなければならない。信頼関係の構築が次のビジョンづくりへと発展する。スリランカにはジャイカを始め世界各地から支援の手が届いていて、被害のあった学校再建や住宅地建設が始まりつつあるが、当事者や住民の意向はほとんど反映されていないようであった。日本でも住民の意向が後回しなる案が少なくないと聞く。災害からの復旧・復興は急ぎたいが、しかしそこに子どもや孫やその子どもや孫が住み続けることを考えれば、時間をかけ、自然環境と集落の空間構造を読み取り、社会の変化に可変できる案を住民が主役になって練るべきであろう。同時に、住宅の再建と仕事の確保を車の両輪としてとらえた生活の再建ビジョンを考えたい。玄界島では幸いにも漁業は順調であった。が、中越では農地の崩壊が災いしている。農山漁村集落では生業の場なくして暮らしは成り立たない。どこに住むか、どこで働くか、どのように暮らすかを住民・行政・専門家が時間をかけて練りあげることを希望する。(2005.7記)