1982 生活空間再考11「場の必要性」 建築とまちづくり誌
 
 農民作家として有名な山下惣一氏の一連の本は、その巧みでユーモアにあふれた文体で、村の本音、百姓の本性がつづられており、大変おもしろい。読みながら思わず笑い出すこともしばしば、笑いながらその深刻な農村の置かれている状況に、涙することもある。その著書の一つである「一寸の村にも五分の意地」の中に、村よ、霞ケ関よ″の下りがある。概略は、「わが家の隣りの公民館の広場にある、火の見に据えられた有線のスピーカーから、村と村民をつなぐ放送が流れてくる、これを聞いていると、村の人間は都会でなら当然行政がやっていることを、自分の暇をつぶしてずいぶんやっている、下水掃除やら薬剤散布、消防団、農道の草刈り、村有林の植林、さらには公民館の修繕費、小・中学校への寄附まである云々」である。
 農地を守り、農業を必死に維持している自分達の実情を、もっと理解して欲しい、が氏の主張であろう。私も全く同感であるが、少し感じ方は異なる。というのも、氏の言う暇をつぶしてずいぶんやっていることは、(氏は知ってて筆をすべらしているのであろうが)、自分の村をわがものとするために、本来やらねばならない生活の一部なのではないかと考えられるからである。
 自から手に汗して道を整え、水路の手入れをするからこそ、道や水路の役割、その大事さを熟知できるのである。如何にして火を防ぐか、火から身や財産を守るか、の知恵の一つの具体的な現れとしての消防団であり、くり返しの行事の中で、火に対する日常の用心を高めることにもつながろう。下水掃除や薬剤散布にしても、家庭雑排水や汚水の処理の仕方を、一人が注意を怠れば自分ばかりでなくもっと大きな範囲ではね返ってくることを教えてくれる。ゴミ処理も同様で、それぞれの人が努力を重ねてやっと成り立つものであり、処理場を作れば解決するものではないことを、身を持って理解できるチャンスでもある。自分がかつて学び、そして自分の子どもが学ぶところであり、村の生活にとって欠かせないものであるから、学校や公民館のために労力を出し、金を出して維持を図ろうとするのである。
 自分が暮すところであるから、自分の子どもが暮すところであるから、家をつくり守ると同じように、貴重な時間をさいて労力を出し、乏しい資金をつぎこんで村をつくり、守ろうとするのではないだろうか。こうした行為を通して人々はまた、村への愛着の情を育て、自然への畏敬の念を深め、力を出しあい結束することの意義を学んでいくはずである。
 
 ところで氏の記述の中にもう一つ、大事な点がみられる。村と村民をつなぐ有線放送の役割である。これにより、農作業の最中であれ、手を休めることなく様々な情報を村の人々と同じように得ることができるのである。情報が一方的で偏ったものとなり易いとか、上意下達となり発信者の操作が入り易いとか、聞きたくないものも無理矢理聞かされるとかの欠点は確かにあろう。しかし、これは放送を権威化させず、流す情報について事前または事後に内容をチェックするような、村人の放送の位置づけで防げるものであって、むしろ地域内的な情報について、直接関われない場合でも、同じレベルにいられることが高く評価できる。無論、直接的なコミュニケーションによる結びつきが基盤にあって、始めて有線放送が生きてくるのであり、(そしてまた、そうでなければ放送を村人のものとすることはできないのであり)、あくまでも補完的、従的な位置にあることはいうまでもない。
 同じような光景は、つい先日、久し振りに訪ずれた福島・大内宿でも耳にすることができた。大内宿は、一本の街道の両側に寄棟の民家がきれいに並んでいることで有名だが、この街道の一番上手にあって道の全景が見通せる民家に、休憩を兼ねて立ち寄った時に、各戸に配られた有線から、葬儀の案内が流れてきたのである。街道に目を転じると、あちらこちらの家から正装した人が、指定の場所に向う様が良くみえる。この放送が、参列しない人も参列する人とかなり近い体験を、同時進行の形で共有できることに役立っていることが良くわかる。
 なにも際限のない労力奉仕や有線放送を礼讃しようというのではない。これら自力更生的な活動や体験の共有化によって、実は村人のまとまりが強められ、そしてまた、村をわがものとすることができるのではないかと、いいたいのである。逆にいえば、人々がまとまりを強めようとし、かつ村をわがものにしようとするから、人々の合意の上に成り立つこれら活動が生れてくるのではないだろうか。
 ひるがえって都会の生活をみるに、あまりにもこうしたことに希薄すぎる感がある。山下氏は、安易に行政に頼りすぎると指摘するが、行政を介在させねばならないほどに、人々の結びつきが弱くなっていることも大きい。
 一つ所に住んでいるとは言っても、生業形態や生活圏は大きく異なるのが一般的である。例えば、隣りあわせの住居でも、片や電車通勤の商社員と、片やマイカー利用のデザイナーとでは、主人同士が顔を合わせるのは稀となろう。片や買物は近くの商店街ですませる専業主婦と、片やパートで働きスーパーで買物の兼業主婦とでは顔を会わせてもそそくさとならざるを得まい。子どもも小さい時は歩きの保育園とマイクロバス送迎の幼稚園、大きくなっても帰宅後は塾に習い事では、一緒に遊べといっても無理な話である。加えて、夫婦でカラオケに対しピアノにワイン、たまの休日はマイカーで釣りに対し親子でソフトボールと、生活感覚の違いも重なってくる。
 一方、生活を取り巻く様々な事象も、地域的スケールをはるかに超えた都市的スケールのものが複雑に絡みあっており、問題の所在をわかりにくくさせていることも一因としてあげられる。ある人にとって身近かな問題、日常のレベルのことであっても、他の人にとっては必ずしも同じ質とは映らず、対応の姿勢にも違いが現われてくることも多い。接点を持だない隣人であれば、なおさら煩わしく感じられよう。結果として、電話一本で何でもかんでも行政にと短絡させてしまうことになるのではないだろうか。
 
 だからといって手をこまねき、放置しておいて良いはずがない。我々は生態系の一員であり、少なくとも身の回りの環境を保全し、より良い形を継承する責務があろう。さらには、より良い生活を求め、地域的な文化を醸成し、次代に伝承することも望まれよう。
 ではどうするか。その意味で山下氏のことば「自力更生的な共同の活動、有線による体験の共有化が村のまとまりにつながる」は大いに参考となる。事実、都会の生活にも農村のそれとは質も形も異なるが、人々の地縁的なまとまりや地域をわがものとすることにつながり得る、多くの芽を見い出すことができる。
 例えば子ども会の活動があげられる。まだまだ余暇を利用したレジャー的なものに限られているようだが、クリスマス会、餅つき会、運動会や歓送迎会などチャンスは多い。年齢層に分けた役割の設定、通学班などのグループによる交流、中学生・高校生のリーダー的性格や親達育成会の指導的性格の位置づけ等々、試行錯誤を踏まえて形を整えつつある。親子読書運動など文化的な面の強いもの、ソフトボールクラブなどスポーツに限ったものなど、部分的、目的的な性格の強いものもみられるが、地縁的な結びつきによっている限りは地域的な活動を導き出す母体となり得よう。
 情報による体験の共有化については口コミ以外は、残念ながら回覧などの上意下達的な性格の強いものしか見当らないが、上記の各種活動の報告や地域的なミニコミ式の内容を盛りこむことで、及ばずとも一役をになえるのではないだろうか。掲示板を活用して、壁新聞的性格を与えることも可能であろう。
 あとは直接的なコミュニケーションを成立せしめる、人と人の接点の場を如何に作りだすかであり、これこそ作り手の本領発揮である。住戸へのアクセスの共用、コモン広場の利用、閉じた道・・・空間が無ければ生活はないのである。