1995 「まちづくりと環境」 建築士会杉戸支部講演9510

 1995年10月に、埼玉県建築士会杉戸支部で「まちづくりと環境」について講演した。そのときに作成したレジメである。レジメであるから言葉足らずだが、まちづくりの基本と思えるので紹介する。
 
1 町・つくる・環境、三つのキーワード
 最近、この三つのキーワードがよく聞かれる。それだけ重要性が認識されてきた、と同時に、まだ解決されていない課題があることを示している。
 
1a 町とは大きな家族
 そもそも「町」の語源は、田と丁、つまり田と田のあいだのあぜのことだったが、次第に境や区切りの意味に変化し、さらに区切られた市街、自治の1単位を指すようになった。例えば町年寄りといえば町奉行の下にあって町内の通達や金銭の収納を行う役であり、町人の選挙で選ばれるのが慣例であった。つまり、町は一定の制限はあったものの自治が認められた一区切りの社会単位だった。
 祭りで山車や御輿が町単位に出ることが多い。かつては町ごとに神社をもち、町ごとに産土の神を敬い、町ごとにその年の豊作と町の安全(五穀豊饒・町内安全)を願った。町民は、産土の神の子、氏子であり、互いに助け合ってきた。
 榛名講や葬式組合など、さまざまな社会集団も町ごとに組織された。
 町は一つの大きな家族であり、町づくりとは大きな家族が暮らす大きな家を考えることである。
 
1b 作り手も使い手も主役は住民
 日本では長く稲作農耕が生活基盤にあったが、米は作り手が食べるのではなくいつも上納であった。農民の主権は戦後まで制限されてきた。武士ですら藩の存続が任務であった。かつての社会で自らの主権を主張できたのは海賊と商人だけだったのではないか。
 明治維新後、平民に大幅な自由がもたらされたが、再三の自由民権運動が示すようにそれは御伺いをたて、あるいはお願いをして認められた範囲でしかなかった。
 河川の改修をお願いし、道路の新設をお願いし、公園の設置をお願いし、下水道の整備をお願いしてきた。自分の土地であっても建物を建ててよいか御伺いし、どのくらい大きさまで建てられるか御伺いし、モルタル塗りの指示がでればそれに従ってきた。
 長い歴史ですっかり発想は受け身になり、お上の言うことを絶対視し、トップダウンに慣れてしまった。
 最近少しずつ、ボトムアップ、つまり庶民の声を結集して政策に反映することができるようになった。行政も住民の意見を求め始めた。住民参加である。しかし、参加は主役ではない。あくまでも企画されたことに参加しただけであって、主導権は住民にない。
 ようやく近年、行政と住民が企画から町づくりを考え、さらに案を練り、事業化することが実験的に始められた。パートナーシップの町づくりである。
 自分たちが住む町を自分たちが考え、自分たちが改善案を作成し、自分たちが事業化する。当たり前のことが実現するまで時間はかかった。しかし、確実に大きなうねりになっていると確信する。
 
1c 建築は環境の内なる存在
 環境の字を辞書で引くと、私たちを取り巻き、私たちにさまざまな影響を及ぼしている外界とある。外界に対する内界は私たちのことであろう。とすると、私たちは環境を構成しないのだろうか。
 生態学では生物は環境からさまざまな影響を受けるが、生物も自分たちに好ましい環境に作り替えようとする働きがあることを指摘している。もし寒い環境であれば生物の行動は鈍くなり場合によっては凍死するが、動物は穴を掘って地下に避難したり、人間であれば火をおこして暖をとろうとする。
 知恵のある人間はさらに技術を発達させ、乾燥した環境であれば潅漑し、ため池を作り、住みやすい町に作り替えてきた。環境は私たちに影響を及ぼすが、私たちも環境に大きな影響を与えているではないか。
 そのうえいまや、経済的なメリットや物質的な繁栄や生活の利便と快楽がとことん追求され、巨大都市が形成された。環境が都市の影響を受け急速に変貌しているのである。このままでは、辞書は環境とは都市の影響を受けて変貌する外界と書き改めなくてはいけなくなる。否、阪神大震災は尊い犠牲のうえに巨大化した都市の恐怖を教えてくれたではないか。
 私たちも環境を作っている一員であることを再認識しなくてはならない。建築もしかり。私たちは建築を作るとき、たんぽぽや赤とんぼや爽やかな風を考えなくてはいけない。少なくとも彼らは先住権をもっているのだから。
 
2 環境と共生する町づくり
 私たちも、私たちが必要とする建築も環境の一員なのであるから、常に環境との共存、共生を考えなくてはならない。共存、共生するものだけが存在を許されると言ってもよい。特定の民族が優位に立とうとした結果、世界各地で民族紛争が勃発することになった。その解決は互いが平等の存在を認めあい共存・共生を図るしかないことは自明である。
 経済優先・物質重視の結果が、環境破壊や過疎と過密のアンバランス、貴重な生物種の消滅につながったことも記憶に新しい。その解決にも小動物や植生との共存・共生、水系や海岸線、山並みとの共存・共生、地方それぞれの個性を尊重し、都市と農村が地域として共存・共生する発想が必要である。
 建築に関係の深い社会環境、自然環境、歴史環境のについて、共生のあり方を考えたい。
 
2a 社会環境
 町は町民による自律性をもちたい。町民が町を点検し(点検地図)、町の将来について意見を出し合って町の将来構想を描くとよい(ワークショップ)。安全で、快適で、文化的に暮らすにはどうしたらよいか、みんなで話し合えば、何が好ましく何がルール違反か自ずと分かってくる。
 町にはかつて骨格となる道路があった。それは町の中心軸をなし、店が立ち並び、祭りが練り歩く道であった。町民はこれを表通りと呼ぶ。花嫁御寮の行進も、葬式の列も表通りを進む。
 表通りはハレの場であり、応じた賑わいとデザインが必要になる。
 対して、表通りから入る脇道は、オモテ性をもたない。そこは隣近所の人がのんびりと立ち話をし、子ども達が安心して遊び回れる私性の強い道になる。
 さらに裏道がとられることもある。クネ沿いもその一つである。ゴミを出したり、洗濯物を干したり、ときには夜逃げをするときに使う公共性をもたない道である。
 どの道も自動車のため広げられ、舗装が行き届き、表通りになってしまった。生活は多様であり、人も多様な生き方をする。通りもオモテとワキ、ウラを用意したい。
 建物のしつらえもすべて一様である必要はない。オモテにはオモテの表現を、ワキにはワキの表現、ウラにはウラの表現があってよい。言い換えれば、オモテやワキ、ウラの表現からかけ離れたデザインは避けるべきであろう。通りの環境的な質を読みとり、ふさわしいデザインをすることを期待したい。
 
2b 自然環境
 自然の地形は環境の決定的要因である。降った雨は斜面を急速に滑り落ち、渓谷を作り、扇状地と沖積低地を作り出す。風は勢いを山にせき止められ、谷間を吹き抜け、斜面を吹き下ろす。
 出雲地方の築地松は沖積低地での人智を表し、礪波平野では扇状地での人智を教える。すなわち、出雲地方は斐伊川による沖積低地であり、斐伊川の源流となる山地と斐伊川の流路を定める山地に挟まれ、冬、西風が吹き荒れる。人は防風のため屋敷西側に松を植え、米の収量と風による松の被害を防ごうと屋根の高さをめどに剪定を施す。
 礪波地方は北アルプスを遠望する傾斜地のため、河道の定まらない庄川が扇状地を形成、そのうえ春に乾燥した熱風が山を越え、南風として吹き下ろす。人は防風、防火のため屋敷南側に杉を植え、採光のため下枝を払う。
 同じ風でも立地によってその性質は異なり、人は風と土地の性質を読み取ったうえで適切に屋敷林を仕立てる。自然をもって自然を制す。この発想に環境としての無理は生じない。
 山形県の旧上杉藩は、かつて藩の窮乏をしのごうと、玉石が山積する松川沿いの荒れ地開拓に乗り出した。玉石を土留めに利用し、その上にウコギ垣をしつらえた。ウコギは新芽が食用に、根が薬用に、そして枝には刺があるため屋敷囲いにもなる。さらに屋敷内には柿、栗、桃、林檎などの食用、薬用、用材として活用できる樹木を植え、玉石で水路を整備し、玉石で池を作り、鯉を育てた。
 自分が生きるため、自然の力を活かす。この発想にも環境としての無理はない。
 ドイツで始まったビオトープ、生物にとって好ましい生態系を保全しようとする活動は、環境との共生を積極的に進める先進事例として評価したい。
 それらは地球環境問題にも、省エネルギーにも、ゴミ問題にも直結する技術でもある。
 まず地形を読め、地形の性質に従い、自然をもって自然を制す。緑を増やせ、食べ物、花、多様な緑、鳥が集まり、潤いが生まれる。
 
2c 歴史環境
 旧上杉藩による町並みは当時の困窮と自然を活用した町づくりの思想を今に伝えてくれる。訪れた人は、合理的な屋敷の配置や環境順応の暮らしを理解することができる。そこには現代にも通じる合理性と環境共生の発想があり、手を加えればなんら生活上の支障はない。多くの人は、機能性を加え、住み続けたいと希望する。
 なぜか、人は時代の変化の中で新しい技術と斬新なデザインを取り入れ、試行錯誤のうえ取捨選択し、建築と町をいつも現代化し続けてきた。そのためそこに歴史の刻印が記される。言い換えれば、文化の発展がある。
 まず、町の歴史と文化を伝える文化財を保全したい。そこには時代の精神が脈々と息づいている。しかも技術的な合理や環境共生の手法もうかがうことができる。それはいわゆる文化的価値を保有する文化財とは少し意味が違う。
 祭りの中心となる神社はいわゆる文化的価値はなくても、人が集い、五穀豊穣と町内安全を願った歴史を私たちも共有することができる。子どものころの探検基地だった裏山のけやきは、自分や友だちの思い出の風景を形づくる宝物であり、仲間のとっての文化財である。鎮守の森も、農家の屋敷林も、火の見も、時代の中で生まれたものは人々にとって原風景を形づくる文化財に他ならない。
 町の歴史、人の記憶が刻印されたストックを掘り起こし、手を加え、現代に活用したい。もし、新たに建物を計画しデザインするときには町民の刻印を記したい。時代が変わるたび町民の刻印を記していき、新しい町の歴史を作ればよい。つまり、新しい計画とは次の時代への歴史を作ることである。(1995.10記)