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1 白河関跡

白河関跡は、古代陸奥の国に設置された蝦夷対策の施設であり、いわき市の勿来の関、山形の念珠関とともに、奥羽三関として広く知られているが、多くの人々に知られるようになったのは、平安時代に能因法師が詠んだ「都をば、霞とともにたちしかど、秋風ぞ吹く白川の関」や、その他梶原景季のよんだ歌によってだと思われる。また、いつごろつくられたのかはよくわからないそうだが、835年の太政官符とか和漢三才図絵などの記述をみると、だいたい大化の改新以降の7世紀中ごろだろうといわれているのがいい線かも知れない。場所についても、この関跡から西の方向約6kmの白坂に境の明神といわれる場所があり、県境をはさんで玉津島神社と住吉神社がある。この境の明神を関のあった場所だとする考えもある。どちらも地形的にみると関をおくにふさわしいところではあるが、寛政12年(1800年)の白河藩主松平定信の考証によってこの地を白河関があったところとして古関蹟碑を建立したのがはじまりという。昭和になって34〜38年に発掘調査が行われ、古代の遺構、遺物が発見され、断定はできないがこの地が蹟跡の条件にかなう点が多く認められるということで、昭和41年に国の史跡に指定された。春にはかたくりの花が咲き、近くに関の森公園もできて散策するのには適当な場所である。この関跡の森を登ると白河神社がある。











白河関跡
太いつるがトレードマークのよう
白河藩主松平定信が建立した古関蹟の碑
空濠跡
白河神社の社殿
鎌倉初期、従二位藤原家隆が手植えしたと伝えられる老杉。樹齢は、約800年だそうだ。
2 境の明神(境神社)
二所の関とか、さまざまな称しかたがあり、どの言い方がいいのか私どもではわからない。1689年、芭蕉は曾良とともに旅た時、奥州の関門白川の地に着き、その日はこの境の明神に参詣、旗宿に泊り、翌日白河の関跡を見、関山に登り満願寺に詣でているという。芭蕉は白河の関跡は、この境の明神なのか、白河関跡なのか迷っていたらしいといわれている。しかし、後の1800年の松平定信の関跡説が定説になっているようである。ところでこの境の明神は、旧陸羽街道に沿って栃木県側と福島県側に並んでいる。男神筒男命を祀っているほうが住吉神社、女神衣通姫を祀っているほうが玉津島神社だそうで、どちらの県からみるかでかわるようだ。つまり、自分の方からみて内側は女神が守るので玉津島神社となり、外側は男神が守るという考えから住吉神社となるようだ。つまり、栃木県側からみると栃木県にあるのは玉津島神社で、福島県側にあるのは住吉神社となり、福島県側からみると福島県にあるのが玉津島神社で栃木県側にあるのは住吉神社となるらしい。
栃木県側にある境の明神
福島県側にある境の明神
福島県側の境の明神
福島県側にある境の明神にはこんな句碑がいくつかある。
和算家たちが問題が解けたときに神仏に感謝して和算額を寄贈したらしくその記録も残っているそうだが、現物はないため、後世のために復元して残しておこうとのことでつくられたもの。復元はたいへんだったらしい。
3 庄司戻し
曾良の日記に、「旗ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送りテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也。土中古土器有。寄(寄)妙ニ拝。」の文があるそうです。これから察するに、この頃すでにあったらしいということはわかる。この物語は、義経に忠節をつくした信夫庄司佐藤基冶が、子どもの継信、忠信を従わせてこの地まできた。ここで基冶は「汝ら忠義の士たらば、この杖は生きづくであろう」とさとし、サクラの杖を地に立てたという。後にこの兄弟は戦って討死するが、サクラは霊があったのか、やがて根がつき花を咲かせたという。このサクラはそのままということはないと思いますので、何代目かのものだと思いますが残っている。

霊桜の碑