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所在地:大阪市中央区谷町9丁目 「大仙寺」
最寄駅:地下鉄「谷町9丁目」下車、谷町線を北へ、約300M左手
(西側)にあり
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豪商淀屋の初代岡本与三郎常安(常安は剃髪してからの名)は北浜十三人町に住む材木商で、秀吉が伏見在城のとき淀川の築堤工事を請負い、財をなした。その後大坂の陣では徳川方に組し、大坂三郷の惣年寄にも任ぜられ、大坂落城後は中之島に移り、一帯の開発に力を尽くした。
2代个庵(こあん)のとき、靭に海産物市場を開き、また中之島では西国諸藩の蔵米を取り扱い、淀屋の米市を開き、金融業や廻漕業を営むなど経営の多角化をはかり、2代で巨万の富を築いた。これが雑喉場市や堂島米市場の起こりである。彼らの足跡は常安町、常安橋、淀屋橋などに名を留めている。しかし、3代目から後の代々の当主は経営の才能に乏しく、時流に取り残される。
5代目広当(世に淀屋辰五郎といわれる)は10歳で当主となるが、取り巻き連中に遊女通いを教えられ、花柳界に入り浸り、1705年(宝永2年)19歳の時、奢侈な生活は町人身分を越えるものとされ、闕所(けっしょ)所払いとなり、全財産を没収された。この事件で淀屋は没落したが、連座して手代等5名が死罪、広当以外に4名が所払いになっていることから、「公事沙汰」に原因があったとされる。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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淀屋一族の墓がある大仙寺は谷町筋に面している。
白塀越しに見るお寺は会社の事務所のような建物であった。 |
境内の一角にある淀屋一族の墓。表面の文字は風化のため、全ての文字は読取り難い。
手前から2番目は初代常安の墓。「養源院以心常安居士」の文字が辛うじて読める。1622年(元和8年)没。
3番目は2代目玄当(个庵)の墓。玄当は父常安より
引き継いだ事業を更に発展させ、淀屋の巨富を築いたが、一方では茶事、連歌の良くし、画技にも長じた。
1643年(寛文20年)没。
1番手前が4代目重当の墓。淀屋の当主の中では、最も豪奢な生活を送ったといわれている。1697年(元禄10年)没。
なお、4代も个庵を名乗っており、2代、4代のどちらの墓石も、个庵の文字が読取れる。 |
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所在地:大阪市中央区北浜4丁目
最寄駅:地下鉄「淀屋橋」下車、土佐堀川に沿い西へ、すぐ |
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淀屋米市の繁栄振りを表わす、当時の絵と、宮本又次氏の顕彰文からなる「淀屋の碑」。 |
大阪市中央区北浜の土佐堀川沿いに建つ「淀屋の屋敷跡」の碑。
淀屋の屋敷はこの付近から北浜にかけ100間4方(約33,000u)の広さを持ち、内装も当時珍重したガラスを多用し、豪奢を極めたといわれる。 |