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所在地:大阪市中央区中寺2丁目 「本経寺」
最寄駅:地下鉄谷町線「谷町9丁目」下車、千日前通りを西へ
最初の筋を北へ入る薬200M右側 |
豊竹若太夫は竹本義太夫と並び、江戸前・中期に活躍した浄瑠璃の太夫で「竹本座」のライバル「豊竹座」の創始者である。
1681年(天和元年)大坂に生まれる。商家の出身だが、家業を捨て竹本義太夫の門人となり、17歳ころから竹本采女の芸名で舞台に上がった。1703年(元禄16年)道頓堀「竹本座」の東側に「豊竹座」を創始。この時から豊竹若太夫と名乗っている。1718年(享保3年)受領して、豊竹上野少掾藤原重勝、1731年(享保13年)に再度受領して、豊竹越前少掾藤原重泰と改名している。
この間、興行主・小屋主・太夫を兼ね、天声の美声を生かした華麗な節回しは、世の人から竹本座の「西風」に対し、「東風」と呼ばれる独特の芸風を確立した。この竹本座と豊竹座が競い合ったところに浄瑠璃の発展があり、この両者が後には融合し、現在の浄瑠璃の節回しの基本となっている。
1745年(延享2年)の舞台を最後に引退し、以後は経営に専念。1764年(明和元年)84歳で没した。墓は中央区中寺町の本経寺と天王寺区の四天王寺墓地にある。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
大阪市中央区 本経寺に建つ若太夫の墓 |
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豊竹若太夫の墓のある本経寺の山門。
山門の横に建つ石碑には「豊竹若太夫墓所」とある。 |
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境内にある墓は合同墓で、9名の法名が刻まれている。右端の「一音院真覚隆信日重」が若太夫法名。 |
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境内に「豊竹桜」と刻まれた石碑があった。
1824年(文政7年)十月、越前少掾61回忌の折、追善のために桜が植えられた。
勿論、当時の桜は残っておらず、現在あるのは何代か後に植えられたものである。 |
四天王寺西門墓地に建つ豊竹若太夫の墓 |
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側面の文字もかなり欠けており「性名 豊竹越前少掾 藤原‥」が読み取れる。 |
この墓地には、歌舞伎や浄瑠璃関係の人の墓が多くあるが、この豊竹若太夫の墓が劣化が一番進んでおり、表面の文字は殆ど読取ることが出来ない。 |