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地名の由来
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夕陽丘 所在地:大阪市天王寺区夕陽丘町
最寄駅:地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽丘」下車、5号出口
出たところに案内板あり、西に入るすぐ
夕陽丘という大阪の地名には似つかわしくない(?)ロマンチックな地名は、郊外のニュータウンによく見られる『○○ヶ丘』のはしりで付けられたのではと、子供の頃から思い込んでいた。
 しかしながらその名の起りは古く、この地が天王寺村と呼ばれていた頃の小字名が夕陽山と称しており、現在の地名も1900年(明治33年)以来のものであるとのことである。 
 「新古今集」の選者の一人であった歌人藤原家隆が鎌倉前期の1236年(嘉禎2年)、彼岸の落日から西方浄土を仰観出来るという浄土教の教えの「日想観」を修するため、この地に小庵を営み『夕陽庵(せきようあん)』と名付け,「古今著聞集」には家隆の臨終際の七首の内の一首に、『契りあれば難波の里にやどりきて浪のいり日ををがみけるかな』というのがあり、「摂津名所図会]にも、『この詠より、地名を夕陽山といひけるにや』と記載されており、その歴史は大変古いといえる。
「新古今集」 後鳥羽院による鎌倉時代最初の勅撰和歌集。撰者には源通具藤原有家藤原定家藤原家隆藤原雅経らが名を連ねている。全20巻・1978首から成る
「古今著聞集」 :1254年(建長6年)に成立した説話集で編者は橘成季とされ、全20巻・30編から成る
「摂津名所図会]:1788年〜90年(寛政8年、10年)に発刊された江戸時代におけ代表的な摂津の地誌。
全9巻・12冊から成る

[参考資料] 『日本地名大事典』大阪府編 角川書店  
          『日本歴史地名体系』大阪府編 平凡社
藤原家隆の墓-1 木々に囲まれた藤原家隆の墓(左側)。家隆は病で官を辞した後、この地に庵を結び、1237年(嘉禎3年)80歳で生涯を閉じた。
右手の石碑は1846年(弘安3年)に建てられた「家隆卿旧跡碑」。
史跡の中に、(享保6年)秋野坊成順建立の石碑があるが、風化が甚だしく大部分が読めない状態。手前にライオンズクラブが碑文の全文をパネルにしている。 秋野坊成順建立の石碑
藤原家隆の墓-2 墓地は戦後、地元のライオンズクラブの手で復元され、1976年(昭和51年)大阪府の史跡に指定された。
谷町筋からの突き当たりが入り口と思っていたが、地元の人の話では実は裏口との事。上の写真の石碑の方が表側らしいが、現在はこの裏口からしか入れない。

地名-002/TTL-085

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