|
所在地:大阪市天王寺区逢坂2丁目
最寄駅:地下鉄堺筋線「恵美須町」下車、国道25号線東へ
約500M、右手にあり
|
当山は茶臼山の北にあり、施餓鬼・納骨の寺として、全国的に知られているが、その縁起は1185年(文治元年)、法然上人が当時の四天王寺の管長だった慈鎮(慈円)和尚の招きでこの地を訪れ、いまの一心寺のあたりで、難波の海に沈む壮麗な夕陽を見た。上人は極楽浄土観法の初観「日想観」を行うに最適な光景を目の当たりし、そこに小さな庵を結び、しばらく滞在したが、後白河法皇も四天王寺参詣の途次この地を訪ね、法然上人と共に「日想観」を修した。この故事をもって開基と伝えられている。
当初は「荒稜の新別所」と呼ばれ、後に「源空庵」と称したその草庵が「一心寺」の発祥とされている。
1614年(慶長19年)大坂冬の陣及び1615年(元和元年)夏の陣では徳川家康が茶臼山一帯、なかでも一心寺を本陣するなど、法然上人や家康公ゆかりの寺として名刹とされてきた。
1945年(昭和20年)の空襲で塔堂伽藍のほとんどが焼失、現在の建物は戦後の再建によるものであり、特に近年建立された堂宇は斬新なデザインのものが目立つ。
|
[参考資料] 『お骨仏の寺 一心寺』 一心寺パンフレット |
|
一心寺のかっての山門は黒門と呼ばれ、大坂城玉造御門を移築したと伝わるが、戦災で焼失した。新しく再建された山門(仁王門)は美術館の入り口を思わせる。この仁王様は武器を持たず、素手で悪に立ち向かっている。
1997年(平成9年)に完成した。 |
本堂は1966年(昭和41年)に再建されたとのことであるが、子供の頃(1950年前後)、祖母に連れられてよく来た一心寺(参拝は四天王寺とセットになっていた)の建物はどうなっていたのか、残念ながら記憶は全くない。 |
|
|
もうもうと煙が立ち込める「納骨堂」。お堂の中には納骨されたお骨で作った「お骨仏」が安置されている。
一心寺で施餓鬼法要を一般庶民のために常時受付けるようになったのは1856年(安政3年)からという。 |
境内の墓地には古い墓石が沢山あるが、これもそのうちの1つで、1615年(元和元年)5月大坂夏の陣で戦死した「丹波篠山藩士14名の墓」。1760年(宝暦10年)に建立されている。
その外、市川団十郎(8代目)、上総大多喜城主本多忠朝の墓がある。 |
|
|
|
|
|
|
|
[2003年12月19日参拝] |
|
|