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霊場参拝
近畿36不動尊 近畿36不動尊
第19番
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青蓮院門跡 所在地:京都市東山区栗田口
最寄駅:京阪「三条」よりバスで「神宮道」下車、南へ約300M
伝教大師最澄が比叡山延暦寺を開いた際、山上に僧侶の住まいとして「坊」をいくつか建てたが、その1つに「青蓮坊」と云うのがあり、それが当院の起源と云われている。
 青蓮坊は延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居であったが、12代天台座主行玄大僧正鳥羽法皇が帰依し、第7皇子をその弟子として入門させた。また、院の御所に準じて当地に殿舎を造営し、「青蓮院」と改称したのが門跡寺院としての始まりである。行玄以後明治に至る迄、門主は皇族か五摂家の子弟に限られた。
 青蓮院が最も隆盛を極めたのは、第三代門主慈鎮(慈円)和尚の時で、慈鎮は四度天台座主をつとめ、その宗風は日本仏教界を風靡し、日本人初めての歴史哲学書である「愚管抄」を著した。
 応仁の乱では兵火に見舞われ、徳川氏には豊臣氏滅亡後今の知恩院の全域を取り上げられるなど、衰退した時期もあったが、相阿弥の作と伝える龍心池を中心とする室町時代以来の庭園から将軍塚にわたる境内は今日まで保有されている。徳川幕府も東福門院の旧殿を移して宸殿を作るなど、殿舎の造営には力を入れた。
 1788年(天明8年)の大火によって御所が炎上した折、後桜町上皇は当院に避難し、仮御所としたことから「粟田御所」とも呼ばれている。

「愚管抄」:中世の代表的歴史書。全7巻。1220年(承久2年)成立。神武天皇から順徳天皇に至る歴史を叙述。必然の「道理」の理念によって日本の政治展開を説明。「神皇正統記」に影響を与えたと言われる。
[参考資料] 『青蓮院門跡の由緒』 青蓮院のパンフレット
         青蓮院ホームページ
青蓮院薬医門 「薬医門」と大楠。楠は12世紀末、親鸞上人の手植と伝えられるが、実際はそれより時代が下がる13世紀以降に植えられたものと思われるとのこと。
全部で五本あり、京都市の天然記念物指定を受けている。





境内(庭園)の片隅にある本堂は他の建物に比べ、こじんまりとした堂宇である。
本堂にある「青不動(絹本着色不動明王 二童子画像)」は複製であるが本物は国宝に指定されている

青蓮院本尊の青不動(複製)
当院の「青不動」は、園城寺 (三井寺)、の黄不動、高野山明王院の 赤不動と共に日本三不動と云われる。
青蓮院本堂
青蓮院宸殿 宸殿は「門跡寺院」特有のもので、主要な法要を行うのに用いられている。有縁の天皇及び歴代門主の位牌が安置されており、親鸞上人が当時の門主慈円により得度した場所でもある。


室町時代の相阿弥の作と伝える庭園。粟田山を借景にしてその山裾を利用した幽邃な趣の庭である。
この庭の続きに小堀遠州作といわれる、霧島つつじを主体とした「霧島の庭」がある。



豊臣秀吉の寄進の手水鉢

小御所に渡る廊下のそばにある自然石の手水鉢は「一文字手水鉢」といい、豊臣秀吉の寄進である。
相阿弥の作と伝える庭園
ご朱印
近畿三十六不動尊霊場
青蓮院朱印-1
[2003年10月16日参拝]

寺院-048/TTL-083

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