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所在地:大阪市天王寺区逢坂2丁目
最寄駅:地下鉄堺筋線「恵美須町」下車、国道25号線東へ
約500M、右手にあり |
一心寺の境内の墓地には古い墓石が沢山あるが、歴史上に名を残した人の墓も数多くあり、歴史を肌で感じることが出来る。ここではそのうちのいくつかを紹介したい。
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[参考資料] 『現地解説板』等
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八世 市川団十郎の墓 |
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向かって左側の墓が『8世 市川団十郎』の墓。
墓標は上半分は梵字、下の部分に「先祖供養子孫蕃育祈」と彫られている。
8世団十郎は美貌と愛嬌で非常な人気をとった、江戸後期を代表する歌舞伎役者。1854年(安政元年)父7世団十郎の借金返済のため父と共に、大坂中座の舞台に立つことになったが、初日の朝、喉に短刀を突き刺し自殺した。自殺原因に諸説あるが、江戸市村座の舞台とのダブルブッキングを苦にしての自殺説が有力。
最近、狂言の宗家なる人物が、度々のダブルブッキングで世間を騒がしたことが記憶に新しいが、2つの契約の板ばさみの責任の取り方としては、ジェット機の無い時代であったと言えども、団十郎のそれは余りにも哀しい。 |
本多忠朝の墓 |
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戦国時代の武将本多忠朝の墓は高さ約4.7mもある五輪塔である。
1615年(元和元年)5月夏の陣では天王寺の最前線で活躍をし、壮烈な戦死をとげた。
酒豪で知られ、前日の戦いに2日酔いのため、遅参し家康に叱責されたので、その汚名を晴らさんが為、奮戦戦死したと伝わる。
その時、深傷の中から「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と漏らしたとの言い伝えから「酒封じの神」「断酒祈願の墓」として崇められた。 |
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丹波篠山藩士の墓 |
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1615年(元和元年)夏の陣で戦死した丹波篠山藩士14名の墓。墓石は「十四勇士墓碑」となっており、14名の名前が刻まれている。この墓は旧墓が痛んだので、1760年(宝暦10年)に再建されている。
大坂夏の陣の時の丹波篠山藩主は松平康重。
康重は1619年(元和5年)岸和田へ転封となり、その地で歿している。 |
依田新八郎の墓 |
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依田新八郎源秀復の墓(向かって左側)。
墓石には名前の右側に「宝蔵院流鎗術七代系伝」、左側に「機迅流剣術元祖」と刻まれている。
剣豪小説などに登場する依田新八郎は江戸中・後期の武術家で、羽前米沢の人。丹波篠山藩に仕え、1802年(享和2年)藩命により来坂中に客死。
かって私の住んでいた奈良市の市長の鍵田忠兵衛氏が「宝蔵院流高田派第20代宗家」で宝蔵院流の伝統を受け継いでおられ、歴史の重さが感じられる。
11年12月鍵田氏の死去に伴い、新たに第21代高田派宗家として、一箭順三氏が就任されている。 |
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直接には依田新八郎とは関係ないが、元奈良市長鍵田氏の経歴について触れてみる。
鍵田氏は95年県会議員に当選以来、3期9年務めた後、04年市長に当選。市長在任中、父忠三郎氏の遺産をめぐる相続税の未納問題を始めとする数々の疑惑が浮上。05年6月の奈良市議会で不信任案を可決され、解散。7月の出直し選挙の結果は落選。
同年9月衆議院選挙で小泉チルドレンとして、比例区復活当選。09年7月市長選に再び立候補したが落選。11年4月県議に当選したが、11年12月旅行先の韓国・済州島で心不全のため死去。行年54歳。
波乱万丈、栄枯盛衰を地で行くような人生であった。 |