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所在地:大阪市東成区東小橋3丁目
最寄駅:JR環状線、近鉄奈良線、地下鉄千日前線「鶴橋」下車、
千日前通りを東へ約300m |
当社の創建は11代垂仁天皇の御代(3~4世紀?)、愛来目山(現天王寺区小橋町一帯の丘陵地)に下照比売命(したてるひめ)を祀り、以ってこれを起源としている(現在当社の末社、産湯稲荷神社がある場所が旧社地という)。
23代顕宗天皇の御代(5世紀末?)に社殿の造営があり、また606年(33代推古天皇15年)の正遷宮の際、推古天皇の行幸があったという。
歴史的には由緒ある神社であり、当然のことながら、『延喜式神名帳』には名神大社に列し、新嘗・相嘗の奉幣に預ると記載されているが、現在の比売許曽神社がこの神名帳の神社に比定するには異論もあるようだ。
時代が下がって数度の兵火で規模が縮小され、加えて天平年間、織田信長の石山本願寺攻めの際、戦火を避け、産土神として牛頭天王が祀られていた現在地に遷座・合祀され、江戸後期の1788年(天明8年)までは牛頭天王社として、参拝客を集めていたものと思われる。
『大阪府神社史資料』によれば、「天明8年、当社の旧記・神器を発見したと言い出した人がおり、これを元に比売許曾神社の縁起を編纂した。そのときに当社を延喜式内の比売許曾神社に当てたという。『延喜式神名帳』の比売許曽神社が当社であると表明したのは、それ以後のことである」としている。 |
「古事記」応神天皇段に、新羅の阿具沼のほとりで昼寝をしていた女が、日の光に照らされて妊娠し、赤玉を生み、玉は美女と化して、新羅の王子天之日矛の妻となるが、ある日「祖の国に行くといって、子船に乗り、難波に来てとどまったとあり、「これ難波の比売碁曽の社に座す阿加流比売神(あかるひめ)と謂ふ」と記されている。
「日本書紀」垂仁天皇2年条の文中にも類似の説話があり、ここでは加羅国の王子都怒我阿羅斯等が、白い石より生まれた美女と結婚しようとしたところ、女は逃れて海に浮かび、難波に至って、比売語曽社の神になったという。この2つの説話から比売許曽社の神は朝鮮系の渡来人の神と考えられるが、当社が祭神としている下照比売命は「古事記」、「日本書紀」ともに大国主神の女としており、矛盾がある。
これについては、平安時代に渡来系の神と国神が習合したとする説や下照比売命も大陸系で後に大国主の系譜に入ったする説がある。
なお、難波の津に上陸した阿加流比売神を祀る赤留比売命神社(杭全神社境外摂社)は平野区平野にある。 |
[参考資料] 『神社略記』 比売許曽神社現地案内板
『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社 |
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比売許曽神社拝殿。
現在の社殿、社務所は1928年(昭和3年)昭和天皇の御大典を記念して建てられた。
社殿と社務所が渡り廊下(写真の右端)で繋がっている。 |
比売許曽神社正面鳥居。
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本殿の祭神:下照比売命
相殿の祭神:速素戔鳴命・味鉏高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命(仁徳天皇)・橘豊日命(用明天皇) |
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境内小社の白玉稲荷神社。 |
境内小社の大国主社。大国主命は比売許曽社の祭神
下照比売命の父親。 |
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胞衣塚の横には日露戦争の記念碑が建てられ、正面
に出征した人の名が刻まれている。 |
比売許曽神社から少し離れたところにある祭神の1人
大小橋命の胞衣(えな)塚。何時の時代からか、えな塚
がよな塚に呼び名が変わり、子供の夜泣封じに効能が
あるといわれ、人々から親しまれたという。 |
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[7月18日 夏祭りのスナップ] |
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山車の宮入。
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社務所の前におかれてあった神輿。
この神輿は1936年(昭和11年)に奉納され、祭りの主役を務めてきたが、時代の流れとともに祭りも縮小され
1970年(昭和45年)を最後に担がれなくなったという。 |
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[2009年7月1日参拝] |
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