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神社めぐり 船待神社
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道真の足跡へ



船待神社 所在地:堺市堺区西湊町1丁
最寄駅:阪堺電軌線阪堺線「御陵前」下車、南へすぐ
当社は元は和泉国大鳥郡塩穴郡(しおあなむら:現阪堺線を挟んだ東側の地区、開口神社南側一帯)にあり、塩穴天神社と言われ、菅原氏の祖神である天穂日命を祀っていた。
 901年(昌泰4年)菅原道真が左遷により大宰府に赴く途中、道明寺にいる伯母の覚寿尼に別れを告げた帰途、船を待つ間、菅原氏の祖神を祀る当社に参拝し、松の木を植え出発したと伝わる。
 1002年(長保3年)道真の子孫の菅原朝臣為紀がこの地に来て、道真の残した旧跡を種々調査し、官に願い出て、天穂日命の社に道真を合祀し、船待天神社と改称した。
 その後、寛治年中(1087~94年)に現在地に神社を移し、村の産土神として再建し、現在に至っている。そのとき、神宮寺として安楽院という寺院も一緒に移転してきたが、明治初年の神仏分離で廃寺となっている。

[参考資料] 『船待神社 略記(湊の天神さん)』 船待神社パンフレット 
         『現地説明板』 堺市
船待神社正面鳥居 船待神社東側の門
西側の通りに面した正面鳥居。参道の奥は本殿 東側の門。お寺の山門の雰囲気が残るのは、廃寺になった神宮寺の遺構か。
船待神社本殿。
祭神は天穂日命と菅原道真を祀る。 
船待神社本殿
菅原道真が座ったと伝わる腰掛石 菅原道真が座ったと伝わる腰掛石。
境内小社の瘡(かさ)神社。
敏達天皇の御代(在位:572~85年)瘡疾(できもの)が流行し、多くの死者が出た。当時の村民達が医薬の祖神の少彦名命を祀り、祈願したところ、霊験あらたかにして、瘡に病む人は忽ち平癒したと伝わる。
元は旧湊村中筋に鎮座されていたが、1907年(明治40年)当社に移し合祀された。
現在の社殿は1991年(平成3年)に新しく造り直された。
境内小社の瘡神社
瘡神社のお百度石 境内小社の三宝荒神社と役行者

境内小社の三宝荒神社(右側)と役行者(左側)。
瘡神社のお百度石。「天保12年(1841年)」記年銘
瘡神社は江戸時代、参拝者が門前に市をなしたと伝わるが、このお百度石はその名残の1つ。
  

境内末社・十一社が祀られている 水掛不動尊
境内末社。祀られているのは住吉大神、春日大神、
琴平大神、恵比須大神、厳島大神、大国主大神、
天照皇大神、事代主大神、少彦名大神、八幡大神、
猿田彦大神。まるで神々のアパートのようだ。
水掛不動尊。神社の境内に不動尊が祀られているのは珍しい。お堂は1994年(平成6年)に新しく建て直された。
ご朱印
船待神社朱印
[2009年7月7日参拝]

神社-121/TTL-685

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