901年(昌泰4年)1月25日、政敵であった左大臣藤原時平の画策のため、それこそ突然に、醍醐天皇から
右大臣菅原道真に対し、太宰府に左遷する旨の詔勅が発せられた。時に道真は56歳、今から約1100年前、当時としては若い人でさえ過酷な真冬の筑紫への旅は、既に老人の部類に入っていた道真にとっては筆舌に絶する出来事であっただろうことは、想像に難くない。
道真は2月1日に自宅を出立し、現在の京都・長岡京あたりから舟で淀川を下ったとされる。川舟と海船の乗換えの拠点である渡辺津まで約30km、そのまま一直線で淀川を下れば1日もあれば十分な行程であるが、途中各所で下船をし、その足跡を残している。また、大阪に着いてからも、河内・道明寺の伯母覚寿尼を訪ねる道すがら、あちこちに足跡を留めている。
これらの事柄は全てが史実ではなく、伝承でしかないものもあるが、この大阪の地で何日も留まっていることから、突然降って湧いた左遷という事態に「太宰府には行きたくない!」という、未練がましく抵抗する、道真の姿が垣間見える。
道真の功績の1つに挙げられている『遣唐使の廃止』も、実は自分が行きたくなかった(行くのが怖かった?)ので、色々な理由を挙げて、中止に追い込んだのではないかと説も、本当に思いたくなるような、新しいことへの対処が出来ない気弱な道真も伺える。
事実、太宰府に赴任してからの実生活は、米塩も欠くような悲惨な生活で、愚痴ばかりこぼしていたと記録にあり、僅か2年経った903年(延喜3年)失意のうちに58歳で他界している。このように非常に人間性のあるところが、判官びいきも加わり、現在に至るまで大阪人に愛されている所以かもしれない。
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