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所在地:京都市下京区間之町花屋町南入
最寄駅:JR、近鉄、地下鉄「京都駅」下車、烏丸通を北へ、
東本願寺門前、上数珠屋町通りを「渉成園」を目標に約200M右側 |
当社は菅原道真を祭神とする旧村社で、その創起はあきらかでないが、社伝に依ればこの地は菅原道真の乳母多治比文子宅祉と伝える。また、道真は太宰府へ左遷されるとき、自分の姿を彫刻し、多治比文子に与えた。道真が903年(延喜3年)左遷先の太宰府で没したが、没後約40年経た942年(天慶5年)多治比文子に「北野の地」に祀るよう託宣があり、貧しい文子は社殿を作ることが出来ず、自宅に小さな祠を建てて、この像を祀ったのが、当社の始まりとされる。
この付近の土地は、東本願寺が整備されると共に、発展したところで、古地図では1653年(承応2年)には天神町の名が見えるが、寛文年間(1661~73年)には未だ未開の土地であったとのことで、現在の地に「天満宮」が勧進されたのは、1672年(寛文12年)頃と考えられるとのことである。
現在の規模に整えられたのは先々代の宮司の頃で、本殿・社務所・末社がよく整備されており、洛陽天満宮25社中の一つに数えられている。
宮司さんによると、大阪府藤井寺市の「土師ノ里」の近く、大阪府美原町に[多治井]があり、土師氏は菅原氏のルーツである事から、多治比氏と菅原氏とは古くから、何らかの関係があったのではないかとのお話であった。 |
多治比文子は菅原道真の乳母とされるが、道真の乳母であれば、年齢的には、道真よりも年上であると思われるが、多治比文子が神託を受けたのは、道真の生誕後[道真は845年(承和12年)生まれ]、約100年も後のことであり、乳母説が本当なら、この時文子は間違いなく100歳を越えていたことになり、年齢的に辻褄が合わず、この説には疑問が残る。
また、多治比文子邸祉はこの地ではなく、西の京(右京7条2坊)だとも云われており、その地には「文子天満宮旧址」と称する社が存在するとのことであるので、機会があれば訪ねてみたい。
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[参考資料] 『文子天満宮 天神縁起』 文子天満宮パンフレット
『京都史跡事典』石田孝喜著 新人物往来社 |
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門前の鳥居の横(向かって左側)に「天神信仰発祥の神社」と刻まれた大きな石碑が建っている。
右側の高札は京都市が作成した当社の「由緒書」。 |
社殿は天明、安政、元治の大火で類焼し、現在の社殿は1918年(大正7年)に造営されたのもであるが、近年補修され、外観的には真新しい建物となっている。
本殿と並んである「文子殿」。
良縁成就にご利益あり。 |
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本殿と並んである「文子殿」。良縁成就にご利益があるという。 |
社殿は天明、安政、元治の大火で類焼し、現在の社殿は1918年(大正7年)に造営されたのもであるが、近年補修され、外観的には真新しい建物となっている。
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この石は菅原道真が太宰府に左遷されるとき、乳母である多治比文子に別れを告げに来た折、腰掛けた石とのことである |
境内には「文子託宣の像」がある。
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[2004年4月20日参拝] |
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