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所在地:羽曳野市誉田3丁目
最寄駅:近鉄南大阪線「古市」下車、国道170号線を北へ、
行先案内に従い約400M |
当宮の縁起は永享年間(1429~41年)に成立した「誉田宗庿縁起」よれば、欽明天皇(在位:539年?~71年)の勅願により、応神天皇の御廟前に社殿を建立し、八幡大菩薩を勧請したのに始まり、後に、御冷泉天皇(在位:1045~68年)が社殿を南へ1町余り移転、建て直した。
1051年(永承6年)には御冷泉院の行幸があった。と記されているが、同時期に記された誉田山陵関連の文書には八幡宮の存在には言及しておらず、同宮の成立はもう少し時代は下がるというのが通説となっているようである。
いずれせよ、御冷泉天皇在位中の1051年には前9年の合戦が起きるなど、河内源氏の活躍とともに源氏の氏神である八幡神の廟墓として崇拝されるようになったものと思われ、1196年(建久7年)には源頼朝は社殿、伽藍を修復し、現在同宮が所蔵する国宝の神輿などを奉納している。
又、室町時代には足利将軍家が同宮を保護している。
豊臣秀吉は社領200石を寄進し、徳川幕府も引き続き社領200石を安堵し、数次にわたり、社殿の造営、修復を行っている。
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[参考資料] 『安産・厄除守護神 最古誉田八幡宮』 誉田八幡宮パンフレット |
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寺院の山門を思わせる南大門。
事実この門は、江戸時代末まで誉田八幡宮の神宮寺であった護国寺の山門で、明治初年の神仏分離により、護国寺は取りこわされ、当時の遺構として現在では南大門を残すのみとなっている。
護国寺の最盛時には、僧院15坊の伽藍がそびえていたとのことである(「誉田八幡宮古図」)。 |
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拝殿は1600年(慶長11年)豊臣秀頼が片桐且元に命じ、再建させたが、完成直前に大阪の役が起きたため8割方出来上がったまま放置されていた。
その後、徳川家光が再建工事を続行して寛永年間(1624~44年)の初期に竣工した。 |
拝殿の中央部分。
この拝殿は割拝殿形式と言われるもので、正面中央部を拝所とし、向拝部分は、唐破風造りで蛇腹天井となっている。
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境内の一角にある「誉田林古戦場」の碑。
この地は戦略上の要地であったため、南北朝から大坂夏の陣に至るまで、再三古戦場の舞台となっている。
南北朝の正平年間(1346~70年)は北朝方の細川兄弟の軍と楠木正行の合戦が行われ、室町時代の享徳年間(1452~55年)には畠山政長と従兄弟(義弟)の畠山義就の間で誉田合戦が行われた。
1615年(元和元年)大坂夏の陣では、大坂方の武将薄田隼人正がこの境内に大陣を置き、道明寺近くで、討死をとげている。 |
境内末社の1つ安産社。
現地の解説板「安産木の由来」によると、
『1051年(永承6年)後冷泉天皇の皇后が懐妊した折、皇后が見た夢の内容を聞いた天皇は「神功皇后が誉田別皇子を出産されとき、槐(エンジュ)の木をもって産殿の柱を造らせた故事がある。」ことを思い出し、誉田八幡宮にエンジュの木があることが判ったので、勅使を遣わし、その枝を伐りとり、産室の上に吊るして安産を祈念したところ、無事皇子が誕生した。天皇は深く喜ばれ、宸筆の額を納進せられたという。
以来、当社の槐木は、「安産木」として、出産の際に災難を除き、安産の守護として、広く一般に親しまれて来た。』とのことで、源頼朝の母も同様の夢を見、当社へ参篭し、エンジュを枝を守刀とし、頼朝を無事出産したという。 |
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境内にあった「菅原道真公祈座石」(左の写真)と「朝鮮国王奉納灯篭」)(右の写真)。
当宮に伝わる「誉田宗庿縁起」(室町時代)によれば、参篭者には聖徳太子、行基菩薩、弘法大師、菅原道真の名が挙げられているとのことであるが、パンフレットには道真の参拝時期が書かれていなかったが、道真は道明寺には度々来ていたので、その折に参拝する機会はあったと思われる。 |
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[2005年6月1日参拝] |
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