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所在地:
大阪市天王寺区生玉寺町 増福寺
羽曳野市誉田2丁目
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薄田隼人正(隼人)は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣では侍大将に任じられた武将だが、その前半生の経歴は詳らかでない。名は兼相、隼人正は通称名。
無類の酒好きと伝えられ、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では、博労ヶ渕の砦(現大阪市西区立売堀6丁目あたり)に立てこもり、木津川を上る徳川の軍勢を散々に打ち破り名を挙げたが、大勝利に酔い側近を引き連れ新町の色里に入り浸っているすきに、博労ヶ渕の砦を奪われ『橙(だいだい)武者』と評されたが(橙武者のいわれは諸説あるようだが、橙は大きい割には中身はまずい。見掛け倒しであるというところから付けられたというのが一般的)、1615年(元和元年)の夏の陣では東西両軍が相まみえた5月6日の道明寺の戦いで後藤又兵衛、塙団右衛門など共々奮戦し、討死した。
講談本「立川文庫」のヒーローの一人である豪傑『岩見重太郎』のモデルと言われる。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
『現地解説碑』(誉田の墓石)
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大阪市天王寺区 増福寺に建つ薄田隼人正の墓 |
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薄田隼人の墓のある増福寺。浄土宗の寺院である。右の写真は山門脇に建てられている「薄田隼人正兼相碑」 |
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薄田隼人正の墓は山門を入った右手にあり、大きな五輪塔で目立つ位置にあった。この墓は隼人の6代目の孫に当たる薄田兼実が1814年(文化11年)200年忌の追善供養に建立した。
墓石の側面には隼人の経歴とこの墓を建てた経緯が刻まれている。これによると彼は山城国の人となっていた。 |
羽曳野市誉田に建つ薄田隼人の墓 |
羽曳野市誉田に建てられている薄田隼人の墓。 |
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この墓は現在この地は周りを住宅に取り込まれているが、大坂夏の陣での激戦場と伝わる。明治の初め、隼人の子孫の薄田兼郎という人が古戦場を精査し、この地を隼人の戦死した場所と断定して墓を建立した。
現地の解説碑によると『この墓地は1885年(明治18年)隼人の子孫に当たる広島藩主浅野家一族によって建立され、1997年(平成8年)羽曳野市に寄贈された』とあり、現在は羽曳野市の「有形文化財」として保存されている。 |