楠木正成の系図は「太平記」などには橘諸兄を祖とすると伝わっているが、その真偽の程はともかく、この一族は、河内を中心に付近一帯を支配する『悪党』と呼ばれる土豪であったと思われる。
「太平記」によれば、いわゆる「元弘の乱」で後醍醐天皇の倒幕計画が幕府側に洩れて失敗し、天皇は笠置山に逃れ、立てこもった。このとき、後醍醐天皇は、「童子に木の南の下につくられた玉座に案内された」夢を見て、「木に南、すなわち楠」の意味だと考え、楠木正成を呼び出したという。
その後の、楠木正成の奮迅振りはご承知の通りで、赤阪城や千早城に立てこもり、鎌倉幕府軍を苦しめ、幕府滅亡を早める道を作ったが、後醍醐天皇の建武の親政が失敗し、最後は湊川の戦いで、弟正季と差し違え、壮烈な最後を遂げている。
歴史上で正成が活躍したのは後醍醐天皇に召された1331年(元弘元年)から、湊川で戦死した1336年(延元元年)の、足掛け6年間に過ぎない。
この時代、足利尊氏に代表されるように、利に群がり、右左に変身し、不平不満があると自分の意思を通し、天皇といえども、これに反逆するという風潮があったと思われるが、正成は終始一貫天皇に忠節を貫いている。このことから、一土豪の自分を見出してくれた後醍醐天皇に対し最後まで忠節を尽くした愚直な武士という風に語られてきたが、それだけでは割り切れない。「当てにされてんねんやから、最後まで付き合うで!」という、義を大事にする河内人の風土があるのかも知れない。
正成の子供達も、時代の流れの中で翻弄されたが、一途な愚直さが見られる。しかし、正儀を最後に中央の歴史からは姿を消している。
また、この時代に生きた正成や尊氏達ほど、当人の意思とは関係なく、時代の変化と共に、評価が変わった人物は少ない。特に戦前は尊氏は天皇に叛いた逆賊・大悪人で、正成など南朝方を忠臣とする「皇国史観」があり、修身の教科書にも取り上げられたが、戦後の歴史教育では尊氏の功績を評価するなど180度評価が変っている。そのためもあってか、正成一族の史跡も荒れるに任されたところが多くあったとの事だが、近年は地元有志や関連寺社などが保存に尽くされ、管理・維持されているのは心強い限りである。
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