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所在地:奈良県吉野郡吉野町吉野山
最寄駅:近鉄吉野線「吉野」駅からロープウエイに乗換え、
終点「吉野山」駅から徒歩で約30分 |
当山は延喜年間(901〜22年)文章博士三好善行の弟で、醍醐天皇の帰依を被った日蔵道賢上人の草創で、後に後醍醐天皇の吉野行宮を定める時、勅願寺となった。
後醍醐天皇は、京の都に帰ることが叶わぬまま、1339年(延元4年)崩御し、当山の裏山に葬られた。
1346年(正平2年)楠木正行一族郎党が高師直との四条畷の決戦に向かうにあたり、時の後村上天皇に今生の別れを告げ、先帝の御陵に参拝の後、如意輪堂で髻を切り、仏前に奉納、過去帳に氏名を記入した。正行は鏃を持って、御堂の扉に『かゑらじと かねておもえば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる』と辞世の歌を残している。
爾来、寺運は衰退したが、江戸時代初期の1650年(慶安3年)文誉鉄牛上人が入山、本堂を再興し、宗派も真言宗から浄土宗に改宗し、ひたすら、御陵の守護に任じたと伝わる。 |
日蔵道賢上人:905年(延喜5年)生まれ?〜985年(寛和元年)入寂?。金峯山で修行を積んだ真言行者。
941年(天慶4年)金峯山笙の窟で断食、修行中息絶え、13日目に蘇生した。この間に道賢が冥界を巡り、菅原道真や醍醐天皇に出会ったという。このときのメッセージが『道賢上人冥途記』や『日蔵夢記』として伝わる。
この「冥界巡り」は後の『北野天神縁起絵巻』に取り入れられるなど、天神伝説の成立に大きくかかわっている。
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[参考資料] 『吉野山 如意輪寺』 如意輪寺パンフレット |
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参拝した当日は生憎の雨で、山門も霞んで見える。
お寺の東側にある門 |
現在の本堂(如意輪堂)は1650年(慶安3年)の再建で、それより以前にあった楠木正行の辞世の歌が刻まれた扉は宝物館に保存展示されている(下記参照)
後醍醐天皇を祀る御霊殿。
お堂の前に高松宮お手植えの
梓の木があった |
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不動堂には石像の大きな不動明王が祀られている。
このお不動さんは難儀な事態から救ってくれるとのことで、「難切(なんきり)不動明王」と呼ばれている。 |
本堂の傍らに建つ芭蕉の句碑。『御廟年をへて忍は何をしのふ草』
芭蕉の真蹟から採られている。1971年(昭和46年)の建立 |
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「鬢塚」と向き合うように建つ「弁内侍至情塚」。
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境内ある正行一族郎党143名の髪を埋めたと伝わる
鬢塚(もとどりつか)」 |
弁内侍は御村上天皇に仕えた女官で、正行の奥方との話があった。正行の討死後、尼僧となり、菩提を弔った。 この塚は、その黒髪を埋めたところと伝わる。 |
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扉に記された辞世の歌 |
正行の兜 |
正行の鎧の1部 |
正行の愛馬の鞍 |
宝物館に展示されていた楠木正行の遺品の数々。左端は正行が四条畷の決戦への出発にあたり、やじりを以って辞世の歌を残したという扉。決戦に際し、河内から遠く離れた吉野まで、来る余裕があったかどうかは別にして、扉に彫られた文字はやじりで即席に彫ったものとは思えず、腕の立つ職人が小刀で彫ったような筆跡である。 |
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近畿三十六不動尊 |
吉野朝勅願所 |
役行者霊蹟札所 |
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[2004年10月3日参拝] |
[2004年10月3日参拝] |
[2005年5月10日参拝] |
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