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史 跡
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楠木一族の足跡へ
楠木正行の墓 (2) 所在地:東大阪市六万寺町1丁目 「往生院内」
最寄駅:近鉄奈良線「瓢箪山」下車、旧国道170号線を南へ約1Km
関西銀行を東に入る、東へ約1.2Km
太平記によると、楠木正行は1348年(正平3年)正月、四条縄手の戦いに際し、六万寺・往生院に陣を敷き、高師直と対峙した。しかし、多勢に無勢、力戦するも及ばず、全身に矢を射立てられ、ハリネズミのようになり、弟正時と差し違え、自害という壮絶な最後をとげたという。本陣となった往生院の境内には、正行の墓と、父正成の碑がある。
 正行が戦死したのは讃良郡四条縄手(現四条畷市)ではなく、河内郡四条縄手すなわち当地一帯であるともいわれている。また、亡がらの胴だけを持ち帰った当寺の黙庵禅師が、この地に埋葬したとの伝えもある。これに符合するかのように、東大阪市四条町周辺には楠木一族ゆかりの遺蹟が点在する。
 また、応仁の乱後の1477年(文明9年)畠山義就畠山政長が家督相続を巡り戦い、政長は往生院を若江城の出城として活用し、義就の攻撃を受けている。1493年(明応2年)幕府と畠山基家(義就の子)の河内の合戦における両軍の陣所を描いた『河内御陣図』には、生駒山の西側に往生院の名が記されているという。
 なお、往生院の正行の墓の参拝には、当院に事前の連絡が必要である。
[参考資料] 『夕日のかなたに見た浄土 河内往生院の考古学』 往生院パンフレット
         『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
往生院山門 往生院は正式には往生院六万寺といい、山号は岩滝山。寺伝によると745年(天平17年)行基菩薩が枚岡の地に「六万寺」を創建、聖武天皇の勅願所となった。
往生院は六万寺の1坊であったが、天慶年間(938〜47年)に炎上。平安後期に安助上人により、念仏道場として復興されたと伝わる。
この地はは四天王寺のほぼ真東にあたり、日想観を行ずる念仏道場として、安助上人の没後「往生院」と称せられた。
境内の一角に正行の墓をはじめとし、正行の銅像、歌碑、顕彰碑などが多く建てられている。
右の写真のお堂の中に正行の墓がある。

楠木正行の像


 墓地の一角に立つ正行の像。
楠木正行の墓が在るお堂
楠木正行の墓
向かって左側が五輪塔が正行の墓。この石塔は江戸時代のもので後に供養塔として建てられたものといわれ、東大阪市の史跡に指定されている。
右側の石塔は父正成の供養塔。正成300年祭に関白鷹司信房の建立による

十二権現社
 お墓と並び、鎮守社「十二
 権現社」が祀られている。
 奥の石の厨子には『小楠
 公菊水会』の名があった。

史跡-045/TTL-237

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