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所在地:南河内郡千早赤阪村森屋
最寄駅:近鉄長野線「富田林」から金剛バス「金剛登山口」、「千早ロープウエイ前」行で「赤阪中学校前」下車。本丸跡は「役場前」下車 |
下赤坂城は森屋から金剛山に通じる府道に面してあり、現千早赤阪村立中学校の裏手に広がる山城である。1331年(元弘元年)8月、楠木正成は笠置山で後醍醐天皇拝謁した後、急ぎ赤阪に帰り、天皇を迎えるために、この城を築城している。
9月27日笠置城は落城し、醍醐天皇はこの下赤坂城に向う途中後捕らえられたが、大塔宮護良親王は下赤坂城へ移ることが出来た。このため 下赤坂城は10月中旬から鎌倉勢の大攻撃の的となったが、このときのさまざまな奇策を使った戦いの様子は、『太平記』に詳しい。
下赤坂城の戦いは10月17〜8日に始まり、10月21日に落城。正成は城に火を放って金剛山に逃げた。 表面的には幕府軍の勝利であるが、正成一族と大塔宮
一行を取り逃がしたことは失敗であったといえる。その後、正成は1332年(元弘2年)4月に夜襲をかけ、奪回してる。
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[参考資料] 『千早赤阪の史跡』 千早赤阪楠公史跡保存会編 |
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千早赤阪村立中学校の裏手の小高い丘の上に立つ「赤坂城址」の碑。1934年(昭和9年)に国史跡に指定されている。
石碑の横にある筈の解説板が無くなっている。 |
辺りの場所は平坦になっている。
休憩するための屋根つきの場所もあり、村民の憩いの場所となっている。 |
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反対側の斜面は農水省に「日本の棚田百選」に選ばれている棚田になっている。丁度稲刈りが行われている最中であった。 |
上記の中学校の裏手から約700mほど北へ下がった、現在の千早赤阪村役場の裏手付近が下赤阪城の本丸があったといわれており、役場前の案内板もその主旨で解説がしてあった。
役場の方から望むと頂上はフラットになっている。 |
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上に登って見るとフラットの部分は水田であった。
城としての遺構は発見されていないが、中学校の裏手のよりは平坦部の面積は大きく、本丸があった可能性はこちらの方が高いとの見方が強いと思われる。 |
頂上付近の農道脇の小屋の壁にかかっていた「楠木兵法」についての解説板。ここの解説は其の1となっており、各所に掲げられているらしい。 |