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上赤坂城址赤阪山 所在地:南河内郡千早赤阪村桐山
最寄駅:直接この近くまで行っている交通機関はない。
近鉄長野線「富田林」駅下車、金剛バスで白木線「東水分」行、
「水分」下車、徒歩で登山口まで約2Km
上赤坂城楠木正成により築城されたといわれており、小根田城城・桐山城・楠木本城などと呼ばれ、標高約350m(ふもとからは約150m)の山に自然の険しい地形を利用して築かれた山城である。
 この、上赤坂城に対し、1333年(元弘3年)2月上旬に幕府方は8万余の軍勢を持って攻撃を開始した。鎌倉幕府が滅亡する3ヶ月前のことである。
 これを守る楠木軍は、大将は平野将監、副将は正成の弟正季とその兵力約300人。自然の利を生かして奮戦したが(敵兵に糞尿を撒いての奇策は「糞谷(くそんど)」という地名になって残っている)、水路を絶たれ、陥落した。
 大将平野将監は降参し捕えられ、六波羅に移され、六条河原で首をはねられたが、正季は金剛山に落ち延びた。この後、戦いは千早城の攻防へと移った。
 上赤阪城址は1934年(昭和9年)に国の史跡指定を受けている。
 この上赤坂城址は『太平記』には「己が館の上なる赤坂山に城郭を構え、兵勢五百騎にて楯籠り候」とあり、その昔より、赤坂山と呼ばれていたらしい。
『日本山名辞典』(三省堂)や『日本山名総覧』(白山書房)には「赤坂山」として記載している。それにならい、ここでも河内の山の1つとしてカウントした。

標  高:349.7m
登頂日:2004年10月11日
25000分の1地形図名:[御所]
経緯:北緯34度26分53秒、東経135度37分51秒
[参考資料] 『千早赤阪の史跡』 千早赤阪楠公史跡保存会編
         『国史跡 楠木城跡(上赤阪城跡)』 現地解説板 千早赤阪村
上赤坂城址-1 上赤坂城址への入口(「一ノ木戸」)。
入口に建てられている解説板は珍しく、日本語と英語の対訳つきであった。
「一ノ木戸」「二ノ木戸」「三ノ木戸」 ‥‥と、数100Mごとに関門が設けられていたとの事で、写真は「二の木戸」と言われる辺り。 上赤坂城址-2
上赤坂城址-3 山上(本丸跡)に建っている2つの石碑。
大きい方の「史跡 楠木城址」碑は楠公600年祭の記念行事として1935年(昭和10年)の建立の予定で、石はふもとまで運ばれてきていたが、戦時下に入りそのままにしておかれ、戦後の1983年(昭和58年)ヘリコプターで運搬され、やっと建立されたといういわくつきの石碑。
その後ろの「上赤阪城址」碑は1936年(昭和11年)
南河内郡東部教育委員会が建立。
上赤阪城址より河内平野を望む
上赤坂城址より河内平野を望む。中央の山は信貴、生駒山系。右端には二上山が見える。

史跡-062/TTL-295

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