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所在地:南河内郡千早赤阪村桐谷
最寄駅:近鉄長野線「富田林」から金剛バス、OR 南海高野線
「河内長野」から南海バスで「金剛登山口」へ |
千早城は楠木正成が1332年(元弘2年)金剛山腹に築いた山城で、別名楠木詰城と呼ばれている。太平記には『(鎌倉幕府方100万に対し、身方の軍勢僅か数千足らずをもって)誰をたのみ、何を待つことなく、城中にこらえて防ぎ戦いける、楠木が心の程こそ不適なれ』とあり、軍勢の数に誇張はあるが、戦いは幕府軍の攻撃を100日間、藁人形などの奇策をもって堪え、建武中興の原動力となった難攻不落の名城である。
城は標高約660mのところにあり、下を通るの府道との比高150m、大手口から5百数10段の石段を登ると四の丸があり、それより本丸まで奥行き約340m、その比高は約30mと自然の地形を巧みに使った城である。
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[参考資料] 『千早赤阪の史跡』 (社)千早赤阪楠公保存会
『史跡 千早城跡(現地説明板)』 文化庁 |
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千早城本丸跡には「千早神社」がある。元は八幡大菩薩を守り千早城の鎮守として、創建された。後に楠木正成、正行を祀り「楠社」と称した。
1874年(明治7年)社殿を再建。1879年(明治12年)に社名を「千早神社」とした。 |
千早神社の境内に立つ「史蹟 千早城址」の碑。1939年(昭和14年)に建てられている。 |
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千早城址(四の丸址)からは泉州の海まで一望される。城の南(妙見谷)・北(風呂谷)・西(大手口)の3方が絶壁で、城の後方東北の山道が金剛山に通じている自然の要塞である。
太平記に『此城東西は谷深く切れ、人の上がるべきようもなし、南北は金剛山につづきて、而も峯絶えたり、‥‥』とあるごとく、自然の要塞の地であることが実感できる。 |
楠木正儀の墓 |
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金剛山山頂から千早神社に下ってくる道の脇に「楠木正儀の墓」と伝わる五輪塔が建てられている。
また、一説には「正成の首塚」とも言われており、石の扉に当たる部分には菊水の図柄が彫られている。
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[2003年11月23日参拝] |
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