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所在地:和泉市府中町 宝国寺境内
最寄駅:JR阪和線[和泉府中]下車、駅前商店街を抜け、北東へ約800m |
1336年(建武3年)湊川の合戦で兄楠木正成と刺し違え自決した弟正季(まさすえ)の墓が和泉33ヶ所霊場の1つ、宝国寺の境内にある。
足利軍との戦いに敗れた正成は現在湊川神社のある地で、一族16騎、郎党60余人と共に自刃したが、正成の首級は京都六条河原で晒された後、遺族の元に届けられ、河内・観心寺に葬られたと伝わる。
正成以外の人々はどうなったのかは、歴史では正確には伝えていないようだ。もっとも、正成らが戦死しした湊川の地は1692年(元禄5年)水戸光圀が墓所を建立しているが、これは湊川の地が戦いの場であったとの伝承に基づき建立された物と思われる。下って1872年(明治5年)神社が創建され、正成、正行、正季らが祀られている。
宝国寺にある墓は何時の頃から存在したのか、住職も良くわからないとのことであった。 楠木正季と併せ名前が刻まれている和田和泉守重次なる人物のことは良く判らないが、正季の子孫に和田和泉守と名乗る人物が複数人いたことは事実のようだ。重次はその子孫なのか、色々と調べてみても重次の名前には行き当たらなかった。
下記参考資料には、重次の墓標に「応永16年」(1409年)の銘があると記されているが、墓石はかなり風化が進んでおり、自分の目では確認できなかった。
いずれにせよ、正季と和泉守重次の子孫にを名乗る和田氏のいずれかが建立したことには間違いがないと思われる。
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[参考資料] 『泉州 和泉西国三十三所めぐり 観音さま』 和泉西国会発行 |
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宝国寺本堂。
本堂への階段の下に鐘楼が未完成の為、鐘がそのまま置かれているのが見える。 |
楠木正季(和田二郎)と和田和泉守の墓とつたわる墓石。
手前の自然石の墓の台座には[和田氏]とあり、奥の位牌型の石標も墓[六字名号(南無阿弥陀仏)らしいが、はっきりとは読めなかったが]なのか、
2つとも墓とすれば、どれがいずれかの人物の墓なのか良く判らなかった。
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大きい方の墓の裏面には『楠木正成弟和田二郎正季、
和田和泉守重次 墓標』と記されており、
表面の割れの補強も兼ね、1913年(大正2年)和田氏の子孫が別の石に刻んで、埋め込んだものと思われる。 |