大阪再発見の表紙に戻る
史 跡
ロゴをクリックすれば
一覧表に戻ります
楠木一族の足跡へ
奉建塔 所在地:大阪府南河内郡赤阪千早村二河原辺
最寄駅:近鉄長野線「富田林」下車、金剛バス「ロープウェイ前」行で「千早赤阪役場前」下車東へ、楠公生誕碑の所より南へ約300m
この塔は「大楠公600年祭記念塔」として、1940年(昭和15年)5月に完成した塔で、浄心寺塞址と呼ばれる上赤坂城の出城跡に建設された。
 徳島県の画家で楠公崇拝者であった森下白石という人が発起人となり、全国の小、中、青年学校の
児童生徒、教師などから、当時の金で10余万円の寄附を集め、建設した。この記念塔の建設を提案し
た森下と言う人は、純粋な気持ちからの発案だったかも知れないが、当時は戦時下にあり、楠木正成が国民の精神高揚徹底の格好の材料として、利用された感がある。一人のひとの力では全国規模での寄附を集めることは、現在でも困難と思われるが、これが出来たと言うことは、マスコミや全国の教育委員会などが全面的に協力したのではないだろうか。
 現地の説明板によるとかなりの難工事だったらしく、この塔の大きさは『鉄筋コンクリート造り、表面に花崗岩を積み重量最大1300貫(約4876Kg)』とあり、 着工〔1935年(昭和10年)10月〕から竣工まで4年半の年月を要している。戦前の楠木正成の評価を物語る歴史的建造物でもある。

[参考資料] 現地説明板『奉建塔(楠公600年祭記念塔)』  千早赤阪村・千早赤阪楠公史跡保存会
奉建塔 石塔に刻まれている『非理法権天』は、正成の旗印として用いた文字で、「非は道理に勝たず、道理は法には勝てない。法は権力には勝てない。その権力も天命には勝てない」という意味らしい。
塔の高さは正成が43歳の時に神奈川の湊川で自害した年齢にちなみ43尺(約13m)ある。
縦長の「非理法権天」の下には頼 山陽の『大楠公於笠置奉答後醍醐天皇之辞』が埋め込まれている。
揮毫は陸軍大臣林銑十郎とあり、建設当時の時代背景を物語っている。
奉建塔の銘板

史跡-080/TTL-313

1つ前に戻る このページの上に戻る 表紙に戻る

Copyrightc2015.Yoshi Planning.All rights reserved. 写真及び文章の無断使用は禁止します。