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史 跡
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頼山陽生誕地 所在地:大阪市西区江戸堀1丁目
最寄駅:地下鉄四つ橋線[肥後橋]下車、G号出口右へ、約100M
江戸後期の著名な儒学者である頼山陽は大坂の生まれである。1780年(安永8年)大坂・江戸堀で朱子学者頼春水の長男として生まれた。6歳のとき、父の春水が広島藩主浅野重晟に藩校の教授として呼び戻されたため、広島に移った。名は久太郎、のち襄(のぼる)。字は子成、号は山陽のほか三十六峯外史と称した。
 小さいときから、今流にいえば自閉症気味で、情緒不安定な子供であったと伝わる。1797年(寛政9年)18才のとき、江戸に遊学し、昌平黌教授の叔父の尾藤二洲に師事するも遊興に熱中し、1年で戻されている。
 21歳の時、脱藩したが、父に連れ戻され、自宅内の座敷牢に幽閉された。以後数年間、生まれ変わったように猛勉強を始め、この間に書き上げたのが、後に世の学者たちを驚嘆させた『日本外史』の草稿である。
 1812年(文化9年)儒者篠崎小竹を頼り大坂に出て、やがて京に上り、小石元瑞の世話で開塾し、生計を立てるようになる。
 念願の『日本外史』全10巻は1827年(文政10年)に刊行し、歴史家としての実力は広く認められた。また、漢詩や書軸に健筆を振るい、多くの文人墨客たちと交流、各地の大名や富豪たちは争って山陽を招聘し、糸の切れた凧のように気ままに放浪生活を重ねた。1832年(天保3年)喀血し、52歳で急死した。
 なお、安政の大獄に座し処刑された、反幕の学者頼三樹三郎は山陽の三男である。
詩吟に関しては全くの門外漢であるが、詩吟といえば、頼山陽の上杉謙信と武田信玄の決戦を詠んだ「川中島」がすぐに思い浮ぶ程、詩吟のポピュラーソングの観がある。
「川中島」は正式には「不識庵機山を撃つの図に題す」(ふしきあんきざんをうつのずにだいす) と言うそうである。
『 鞭聲粛々夜過河(べんせい しゅくしゅく よるかわをわたる)
 暁見千兵擁大牙(あかつきにみる せんぺいのたいがを ようするに)
 遺恨十年磨一剣(いこんなり じゅうねん いっけんをみがき)
 流星光底逸長蛇(りゅうせい こうてい ちょうだをいっす)』

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
頼山陽生誕地-1 肥後橋に程近いところに「此付近頼山陽生誕地」の碑が建っている。
この地は父春水の私塾「青山社」があったところで、山陽はここで生まれている。
春水は安芸竹原の人、生家は染物業を営む商人だったが、家族の期待を担い大坂の学問所「混沌社」に入学。
めきめきと頭角を現し、塾主の片山北海から独立を進められ、ここ江戸堀で学問塾を始めた。
レストランと思えるような建屋は金光教玉水記念館で、
「頼山陽生誕地」の碑はこの建屋の右端に建っている。
頼山陽生誕地-2

史跡-057/TTL-264


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