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所在地:大阪市北区与力町 天徳寺
最寄駅:地下鉄谷町線・堺筋線「南森町」下車、天神橋筋を北へ、二つ目の辻(寺町東通)を東に入る |
篠崎三島は江戸後期の儒者で、大坂を代表する私塾「懐徳塾」と並び称せられた「梅花社」の 創設者である。
1736年(元文元年)大坂の生まれ。名は応道、字安道、号三島・郁洲。通称伊予屋長兵衛。屋号が示すように父長兵衛が伊予から大坂に出、紙屋を営んでいた。
三島はその次男で、長男の主馬は文人気質で、諸芸に秀で、家業を離れたため、父の隠居後2代目長兵衛を名乗った。
始め、菅甘谷の門人兄楽郊に学び、のち甘谷についた。儒学以外に詩文、易学、天文にも通じ、天文は麻田剛立に学んだ。大坂の町人学者の例にもれず、三島も よく家業にも精励し、商いは繁盛したが、1776年(安永5年)家業をたたみ、土佐堀の隠居所に私塾「梅花社」を開いた。講義の傍ら、月に3回詩会を開き、名ある文人達が参加した。
また、片山北海らの「混沌詩社」にも参加、音曲もよくした。1813年(文化10年)76歳で没した。
篠崎小竹は1781年(天明元年)大坂の生まれ。名は弼、字承弼、号は小竹、畏堂、摂江、南豊、梅花書屋など。通称長左衛門。小竹の実父は豊後の出身で 京町堀で医者を開業していた加藤周貞。小竹は幼い頃から、聡明で、学問を好み、9歳で「梅花社」に学び、4年後三島の養子となる。
頼山陽 とは生涯の親友となり、山陽の勧めもあり、江戸に出て、昌平黌の尾藤二洲に学んだ。
数ヶ月で帰阪、更に四国、中国と歩き見聞を広め、その後再び江戸に出て古賀精里に師事、朱子学を徹底的に学んだ。
「梅花社」は小竹の代に至り大いに繁盛し、幕末の大坂で最も広壮な塾となり、門下生1500人を数えている。書家としての小竹は、頼山陽をして「詩文は吾小竹に勝り、小竹の吾に勝るものは書なり」と語ったといわれ、門前市をなした。在坂の文人の墓標は、彼の筆になるものが多い。1851年(嘉永4年)70歳で没した。篠崎三島、小竹父子とそれに繋がる人たちの墓は天徳寺(北区与力町)にある。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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天徳寺の本堂。
この東西の天満寺町通りにある他の寺院と同様、この寺院も建物は鉄筋コンクリート造りで再建されている。 |
篠崎三島の墓 |
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篠崎三島の墓(左側)とその裏面と側面(右側)。篠崎小竹の選書並びに建立、「不肖弼謹書并建」とある。
墓標「三島篠崎先生墓」の書は頼 春水。
傍らの小さな墓は三島の兄篠崎主馬の墓(夫婦墓)。墓標は「通神亭得一徹心居士、圓明智鏡大姉」とある。 |
篠崎小竹の墓 |
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篠崎三島の養子小竹の墓(左側)とその裏面と側面(右側)。篠崎竹陰の建立、碑文の最後に「孝子概(正字は木の字を既の足に書く)建」とある。 墓碑の碑文は斉藤拙堂撰、呉北渚書。 |
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篠崎竹陰の墓。
竹陰は本姓は加藤、江戸の人。32歳の時来坂、梅花社に入った。小竹の女婿となり、篠崎氏を継ぎ、小竹死後は梅花社を継承した。篠門四天王の1人。
1858年(安政5年)没。行年不詳。 |
後藤松陰の墓。
松陰は美濃の人、1816年(文化13年)美濃遊歴の頼山陽の門人となり、のち山陽の媒酌で小竹の子町子と結婚。江戸堀後梶木町で私塾「広業館」を開いた。1864年(元治元年)68歳で没。 |