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史 跡
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大阪の私塾-2 (2) 所在地:
含翠堂跡:大阪市平野区平野宮町2丁目
懐徳堂跡:大阪市中央区今橋3丁目
絲漢堂跡:大阪市中央区南船場3丁目
洗心洞跡:大阪市北区天満1丁目
いつの時代も親は子供の教育には熱心であるが、江戸時代の大坂は特に熱心だったようである。 子弟が通う中・高等の教育機関としては、幕府直轄の昌平黌や、諸藩が設けた藩校のような官公立の学問所ではなく、民間人(町人)が作った学習塾であった点に特徴があり、 官に頼らない大坂人の心意気を示している。(もっとも、懐徳堂は開校2年後に幕府の認可を受け、半官半民の学問所となった例もあるが)
 特に、懐徳堂からは近世日本の思想史の上でもっとも独創的な思想家と評される富永仲基山片蟠桃らを排出し、18世紀の大坂はまさに学問の自由都市と言える。
 又、庶民に対する教育機関として「摂陽奇観」宝暦2年(1752年)の条に『大坂中寺子屋2500軒あり、およそ7万5千人懸け銭1人前3銅宛』と記されており、当時の大坂の人口 約40万にから見て、20%近い就学率であり(就学年齢を考えると率はもっと高くなる)、この数字には多分に誇張があるにせよ、大坂人の子弟に対する教育熱心さが伺える数字である。

[参考資料] 『現地説明板&碑』

含翠堂跡
平野・含翠堂跡 大阪市平野区平野宮町、国道25号線に面し、建てられている「含翠堂跡」の碑。
含翠堂は、摂津国平野郷市町に、1717年(享保2年)平野七名家の土橋友直らと同志六名により井上赤水の私宅を講堂にして私塾「老松堂」を開いたのが最初で、後に、三宅萬年(石庵)が「含翠堂」と改めている
懐徳堂より7年早い開校であり、155年間存続し、1872年(明治5年)学制公布により閉校した。
経書講読・国学・医学・算学を教授。また飢饉の際に備え基金を積み立て求済活動も行い、1732年(享保17年)から幕末まで8回にわたり施米をしている。

懐徳堂跡 懐徳堂跡
大阪市中央区今橋の日本生命ビルの壁に埋め込まれるように建てられている「懐徳堂旧址碑」。
懐徳堂は1724年(享保9年)大坂の富豪、道明寺屋吉左衛門(富永芳春)三星屋武右衛門(中村良斎)船橋屋四郎右衛門(長崎克之)、備前屋吉兵衛(吉田可久)、鴻池又四郎(山中宗古) の5名が三宅石庵を師として招き建てた私立の漢学塾である。
1726年(享保11年)幕府の許可を受けて半官立となった。そのあと2代学主中井甃庵3代三宅春楼4代中井竹山と続き、大坂文化の形成と商道徳の育成に貢献した。
塾生は武士から庶民まで幅広く、席順も身分に関係なく、商人のことも考え遅刻・早退も自由であった。
門下生として富永仲基山片蟠桃・草間直方ら、自らの理性のみを武器とし、 一切の偏見から自由な思想を展開した人たちが輩出している。

絲漢堂跡
絲漢堂跡 大阪市中央区南船場にある「絲漢堂跡(しかんどう)」の碑。
橋本宗吉は江戸時代後期の蘭学者。極貧の中で育ったが、その才能を間重富小石元俊に見い出され、二人の援助により江戸の大槻玄沢のもとで蘭学を学ぶ。
4ヶ月間の江戸での滞在期間の間に覚えた単語は4万語ともいわれており、 帰阪後は、富重や元俊からの依頼に応じて蘭学本の翻訳を行なったほか、開業医をしながら蘭学塾「絲漢堂」を開設し、西洋科学の研究・教育につとめた。
彼はまたエレキテルの科学的実験も行い、日本の電気学の電気学の開祖と呼ばれている。

洗心洞跡 洗心洞跡
大阪市北区天満1丁目、造幣局官舎の中にある「洗心洞跡」の碑。
江戸時代の儒学・陽明学者で天満与力、大塩平八郎の私塾跡で、平八郎はここで教育と著述に専念していた。当時凶作が続き、庶民は疲弊しており、平八郎は幕府の政策に憤激、自分の蔵書を処分して救済するなどしたが、事態は好転せず、1837年(天保8年)2月19日窮民救済と政治の覚醒をめざして挙兵した。俗に言う「大塩の乱」である。

史跡-049/TTL-251

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