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[更新記録]
・06/1/12 「成正寺&大塩父子の墓」の写真追加



大塩平八郎の墓 所在地:大阪市北区末広町 「成正寺」墓地
最寄駅:地下鉄「南森町)下車、堺筋を北へ、寺町通りを左(西)に入る。阪神高速の手前、北側にあり

洗心洞跡:大阪市北区天満1丁目 造幣局官舎内
大塩平八郎は1793年(寛政5年)大阪町奉行所与力、大塩平八郎敬高(よしたか)の長男として、大坂で生まれる。名は正高のち後素(こうそ)、字は子起、通称が平八郎、号は中斎。一説に阿波出生による養子説もある。
 父の没後、13歳頃、与力見習いとして出仕、以来、退職まで25年近くにわたり精勤し、清廉潔白な名与力と謳われた。26歳で与力になり、27歳の時、大坂町奉行配下の吟味役となり裁断に敏腕をふるった。
 キリシタン教徒の取締り(邪宗門事件)、汚職役人の罪状を暴き、詰め腹を切らせる(弓削新右衛門糾弾事件)などに功績を挙げている学問では陽明学を修めて学者としても広く知られた。
 30歳ころから自邸に「洗心洞」と名づける塾を開き、同僚の子弟や近在の富農に教授していた。1830年(天保元年)37歳のときに養子格之助に職を譲り、退職後は学問と教育に専念し、『古本大学刮目』、『洗心洞箚記(さつき)』などを著した。平八郎が起こした乱関係の遺跡については別の頁に記載した。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
成正寺-1 成正寺-2
成正寺は1604年(慶長9年)増長院日秀聖人の開基による。
最初に訪れた時(2004年7月25日)はお寺の本堂は新築工事中で、山門は取り払われていた(左側)が、現在は右側の写真のごとく、整備されている。
大塩平八郎の墓-1 大塩平八郎の墓-2
本堂裏手にある大塩家一族の墓群(左側)。新しい本堂が落慶された2005年3月以降は平八郎と格之助の墓は本堂前に移されている。(左側)
大塩平八郎後素の「中斎大塩先生墓」とその子「大塩格之助君墓」は新しい。前列右端は「大塩政之丞成余(平八郎祖父)」の墓と中央の古い墓は「大塩平八郎敬高(平八郎父)」、いずれも割れるなど破損が激しい。
江戸時代、平八郎の墓は許されなかった。1897年(明治30年)に田能村直入が建立、格之助の墓も1916年(大正5年)に建てられたが、1945年(昭和20年)の戦災で破損したため、1957年(昭和32年)に有志の手により父子の墓が復元された。境内には『大塩の乱に準じた人々の碑』が建てられている。
洗心洞跡 与力宅門
大阪市北区天満1丁目造幣局官舎内にある、大塩平八郎の私塾『洗心洞跡』で、平八郎はここで教育と著述に専念していた。
同じ造幣局官舎内にある与力宅門。この辺りは東町奉行所配下の天満与力宅が軒を並べていたとのことであり、この建物が現存する唯一のもので、2000年(平成12年)に大改修が行われている。

文化人墓-018/TTL-239

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