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所在地:
槐跡:大阪市北区天満1丁目
終焉の地:大阪市西区靭本町1丁目
成正寺:大阪市北区区末広町 |
大塩平八郎は、1830年(天保元年)に現役を引退し、隠居の身であったが、1833年(天保4年)から始まった大飢饉のため、異常な米不足に陥り、大坂市中に窮民が続出する惨状を見かねて、1836年(天保7年)東町奉行跡部山城守良弼(時の老中水野忠邦の実弟)に養子の格之助通じて、 川崎官倉米の放出を建議するが、進言は容れられず、良弼には「平八、狂を発するか」と一笑に付されてしまった。
平八郎は豪商などに対しても、大名貸しの 中止などを求めるなど、いろいろと手を尽くすが、良弼から「まことに僭越、強訴の罪に当たる。以後謹むべし」と叱責を受けた。
ここに至って、平八郎は武力によって窮民を救済しようと決心し、自分の蔵書を売却して都合をした金
(1朱の施行札として1万人に配布したという)とともに、2000字を越える檄文を摂津・河内・和泉・播磨の4国に配布して、翌年2月19日同志、数十名ととも「救民」の旗をかかげて挙兵、大坂の富豪宅に放火・略奪を開始した。が、わずか半日にして鎮圧され、敗れたのち市中靱油掛町の町家に潜伏中、翌3月27日に発見され、火を放って格之助と共に自刃した。平八郎は享年44歳、格之助は27歳であった。
この「大塩の乱」の決起は失敗に終わったが、幕藩体制崩壊の重大な契機となり、30年後の大変革である明治維新の先駆けの役割を果たし、近代国家日本の誕生に結びついた役割は大きいといえる。
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[参考資料] 『地方史事典』 地方史研究協議会編 弘文堂 |
大塩の乱が始まった『槐(えんじゅ)跡』の碑 |
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大阪市北区天満1丁目、旧洗心洞北側の道路(国道1号線)の傍にある『槐(えんじゅ)跡』の碑。
ここは東組与力朝岡助之丞の役宅庭跡で、事件の当日、先ず最初に大砲が打ち込まれたところである。
碑文には『大塩の乱の時、砲弾があたり裂け、弾痕跡をとどめていた樹齢200年の槐の木があったが枯れてしまい、その後、若木を植えた』とあるが、現在では石碑だけになっている。 |
大塩平八郎終焉の地 |
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『終焉の地の碑』は大阪市西区靭本町1丁目天理教教会の前にある。この碑は1997年(平成9年)大塩事件研究会が建てている。
当地、靱油掛町(旧阿波座掘に面していた)の手拭地仕入職、美吉屋五郎兵衛宅に潜伏し、最後を遂げている。
事件後、美吉屋五郎兵衛・つね夫婦も、犯人逃亡幇助の罪で取調べを受け、吟味中牢死している。
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成正寺境内に建つ『大塩の乱に殉じた人ぴとの碑』 |
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訪れた時(04年7月)は成正寺の本堂が新築工事中であったため、碑は現場事務所の前に移されていたが(左側)、工事完了後は本堂前に移し変えられている。(右側の写真) |
「大塩の乱」150年に当たる1987年(昭和62年)に『大塩の乱に殉じた人ぴとの碑』が大塩父子の墓のある成正寺に建立されている。
事件後取調べを受けた関係者は親戚縁者を含め、900名近くにものぼり、首謀者として死罪となった人達(約40名)の殆どが吟味中に牢死しており、首謀者以外でも牢死した人も多数あり、過酷な取調べであったことが伺える。取調べを受けた中には、大阪市中で起こった乱にもかかわらず、近郊農村(現在の大阪市旭区、都島区や守口市、枚方市)の一揆勢が多くを占めていたが、
この地域は淀川左岸の低湿地帯という共通性があり、有力な米つくり地主が相次いで、洗心洞に入門して、平八郎の思想に共鳴したためと思われる。 |