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大塩の乱(4) 所在地:
橋本忠兵衛の墓:守口市高瀬町5丁目 護念寺
大塩書院:守口市滝田大通り1丁目
橋本忠兵衛の墓 &大塩書院
大塩平八郎の決起に際し、挙兵に参加し、事件後幕府に取調べを受けた関係者は900名にも及ぶが、大阪市中で起こった乱にもかかわらず、市中三郷からの参加者は少なく、近郊農村(現在の大阪市旭区、都島区や守口市、枚方市)の一揆勢が大部分を占めていた。
 そのうち、連判にも加盟した橋本忠兵衛は、摂津国東成郡般若寺村(現大阪市旭区清水町)の庄屋で、広く「ほおずき」の栽培を手がけ、「ほおずき忠兵衛」と異名を取っていた豪農である。
 その上、平八郎の妾ゆうは、もとは、曽根崎の茶屋の娘であったが、忠兵衛の妹として縁組をし、忠兵衛の長女みねは平八郎の養子格之助の妻と言う、大塩家とは姻戚関係で強く 結ばれていた。
平八郎は忠兵衛を通じ、裕福な農家や資産家から軍資金の援助を受けていたと思われる。
 その為に乱後、忠兵衛は取調べ中に獄中で牢死するが、平八郎等16名と共に塩漬の屍を市中引回しの上、磔にされており、平八郎の妾ゆうと格之助妻のみねも捕縛され、 厳しい取調べを受け、獄死している。
 この事件で、橋本家は欠所(財産没収)となったが、忠兵衛のものと伝わる墓が、彼の在所に近い守口市高瀬町の護念寺に存在する。
 また、守口市内には、平八郎の協力者の1人であった白井孝右衛門隠居所で、平八郎が近郷の農民に陽明学を講義した「大塩書院」と呼ばれる建物が現存する。
 [大塩家と橋本家の姻戚関係]
    ゆ う (忠兵衛義妹/平八郎妾:獄死)
     | 
  大塩平八郎(自刃)−格之助(平八郎養子:自刃)
                 |
  橋本忠兵衛(獄死)−み ね(忠兵衛長女:獄死)


[参考資料] 『地方史事典』 地方史研究協議会編 弘文堂
          『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社

橋本忠兵衛の墓がある護念寺
護念寺(守口市) 護念寺は、真宗大谷派の寺院で、世木御堂と呼ばれる。本尊は阿弥陀如来。
寺院は摂津(般若寺村)との国境、河内側に入った世木村にある。と、言ってもその国境は幅5〜6Mほどの細い道でしかない。両所の間にはかっては高瀬川が存在し、「両国橋」が架かっていた。
旭区側にはかっては、両国町(その他別所町、貝脇町など)という町名があったが、現在は全て清水町に統一されており、町の歴史そのものも消されていく感がする。
橋本忠兵衛の墓 大塩事件関係者の墓
護念寺境内にある墓地の無縁墓群中、橋本忠兵衛の墓と伝わる墓石がある(左側の写真)。住職のお話では、『10年程前までは墓の表面に「丸に三」の文字が彫られていたのが確認できた。』との事であるが、現在では表面は欠落している。なお、有志の人たちの間で、この忠兵衛の墓を再建しようという話が出ているとの事である。
右側の墓も「大塩の乱」で処刑された人の墓と伝わる。名は彫られておらず、「菱形の中に六つ星か星梅鉢」のような家紋のみが浮き彫りされている。どちらの墓も縁者がそれとわかるようにこっそりと建てたものと思われる。

大塩書院(白井家隠居所)
大塩書院 守口市竜田通に現存する、大塩平八郎が、守口近郷の農民に陽明学を講義した白井家の隠居所で、俗に「大塩書院」と呼ばれている。
主人の孝右衛門は早くから平八郎の弟子となり、経済的援助を行い、片腕とも言われる協力者であった。

また、大塩の乱の際には、この書院で、挙兵についての謀議が重ねられたと伝わり、事件後、白井家の財産の半分は村預り、残り半分が御坊(難宗寺)に寄進され、のち同家に返されたという。
道標 難宗寺
「大塩書院」の道を隔てたところにある「道標」と難宗寺本堂。難宗寺は蓮如上人が1477年(文明9年)に守口坊として建立したのを始まりとする。のちに本願寺掛所となり、西御坊と呼ばれる。度重なる兵火や風水害により、朽廃。現在の建物は1807年(文化4年)の再建になるもの。

史跡-104/TTL-425

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