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所在地:守口市馬場町1丁目
最寄駅:京阪本線「土居」下車、駅前商店街を南へ約300M |
当社は『延喜式』神名帳にみえる茨田郡の小社「高瀬神社」に比定される。社伝によれば、聖武天皇の御代(在位:724~49年)高瀬川のほとりに行基菩薩により鎮座。
731年(天平13年) 行基はここ高瀬付近で高瀬川(旧淀川のこのあたりを高瀬川と称した)に高瀬大橋を架け、行基49院の一つ高瀬橋院(高瀬寺)を建立している。高瀬寺は橋の管理とともに、高瀬神社の宮寺として機能していたと思われる。
この地は古くより交通の要所で、淀川舟運の拠点として開けてきたため、度々時の政権の争いの場となり、高瀬神社も興廃の歴史を繰り返してきている。
南北朝時代は足利氏と楠木氏の戦場となり、応仁の乱後は畠山氏、三好氏などの同族争いの場となった。
戦国時代の1570年(元亀元年)三好3人衆が四国より侵入し、織田信長に味方した三好義継、畠山昭高らを攻め、1574年(天正2年)には佐久間信盛が河内の三好氏、一向一揆勢と戦い、これらの戦火で社殿は焼失した。
その後、神社は現在地に移り再建されたが、江戸中期(享保19年:1734年)に著された『河内志』によれば、高瀬神社は「小高瀬庄世木村にあり、いま八幡と称する」と記されており、現在の社殿もその当時に再建されたものと思われる。
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[参考資料] 『式内高瀬神社 高瀬川跡』 現地案内板 守口市教育委員会
『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社 |
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高瀬神社の遠景。森と鳥居で神社であることがわかるが、神社の回りにはビルが迫っている。
一旦鳥居をくぐると、そこは昼なお暗き森の中で、夏の涼をとるにはもってこいの場所である。 |
高瀬神社の拝殿。
祭神は天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)で、
旧世木村、馬場村の氏神である。 |
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境内に建つ平安時代詠まれた和歌。
「さしのぼる 高瀬の里の いたずらに 通う人なき 五月雨の頃」 衣笠内大臣。
高瀬川は古くより歌に詠まれ、「高瀬の里」「高瀬の淀」など有名なまくら言葉として使われれている。 |
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高瀬神社と道を隔てた小公園に建てられている「高瀬川跡」の碑(右の写真)。
左側の写真で奥の建物の前の道が京街道。
この地は旧大和川が淀川と合流する場所で、土砂の堆積のため浅瀬となっていたので、高瀬と呼ばれたという。
現在この地に立って見ると、川の流れが車の流れに置き換わり、かっての川の存在を示すようなものは何もない。 |
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[2007年5月15日参拝] |
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