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史 跡
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三好長慶の墓 所在地:八尾市北亀井2丁目
最寄駅:JR大和路線「久宝寺」下車南へ500m程行くと広い通りに
出る。信号を右(西)に折れ中環の方向へ約600m。中環に出る手前右側にあり。途中に亀井郵便局あり。(駅から徒歩で約15分)
三好長慶(ながよし)は戦国時代の武将で河内・四条畷の飯盛山に築いた飯盛城を本拠とし、その絶頂期の勢力は山城、摂津、河内、大和、和泉、丹波、阿波、淡路、讃岐の9ヵ国に及んだ。
 父元長の討死により11歳で家督を嗣ぎ近畿管領細川晴元の執事から台頭、摂津江口に三好宗三(政長)を討ち、その勢力を拡大。1560年(永禄3年)畠山高政畠山政長の曾孫)を追放、河内の国の実権を握った。
 しかし、嫡子義興ら相次ぐ身内の死と松永久秀の策謀の前に、1564年(永禄7年)失意のうちに病死。
 一説にはこれら一連の相次ぐ死は久秀による謀殺ともいわれる。長慶の死は3年間伏せられた後、八尾市亀井の真観寺で葬儀が行われ、境内に葬られた。
 その墓はここ真観寺のほか、飯盛山山中の御体塚丸をはじめ、堺市・南宋寺、京都市・大徳寺、徳島県三野町・滝寺(長慶の出生地)、なぜか千葉県銚子市・飯沼観音などにある。
 なお、後年大坂夏の陣で、真田幸村の伏兵が当寺境内の藪の中隠れ、徳川家康を不意打ちして、槍傷を負わせ、家康は堺・南宗寺に運ばれたが、そこで絶命したとの伝説がある。

[参考資料] 『現地解説碑』 八尾市教育委員会
          『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
真観寺-1 真観寺は臨済宗南禅寺派金地院の末寺で、八尾・本町にある常光寺とは兄弟寺との事。
寺伝によれば、1394年(応永元年)管領畠山満家の発願で、叔父の南禅寺大業徳基を開基として創建。
大坂夏の陣で伽藍が焼失したが、金地院崇伝が再興、その後1671年(寛文11年)に再び全焼している

真観寺-2

 境内の手水盤は『元禄14年
 6月寄進』(1701年)の銘が
 ある。
境内にある三好長慶の墓(向かって右側)とその甥
義継の墓。宝筐印塔の基礎部に五輪塔を載せている。
墓の銘は風化が進んでいるが、長慶の墓には『永禄七甲子 聚光院殿大禅定門 七月初四日』、
義継の墓には『天正元載癸酉 般若院殿大禅定?(欠けている) 十一月十六日』と読める。

義継は長慶の嫡子義興の死後の1563年(永禄6年)養子となり、長慶の死後、三好家の家督を継ぐ。
三好三人衆や松永久秀らと結び、13代将軍足利義輝を殺害した。1572年(元亀3年)久秀と共に織田信長に反逆し、足利義昭を河内若江岩田城にかくまった。翌年の1573年(天正元年)信長の将佐久間信盛に攻められ、自害した。
三好長慶の墓
真観寺十三重塔 境内に建つ十三重塔。
この塔は真観寺を発願した畠山満家の墓と伝わる。
畠山満家は応仁の乱の一因となった家督争いの主役である畠山政長や義就の祖父にあたる。

史跡-043/TTL-235

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