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所在地:八尾市本町5丁目
最寄駅:近鉄大阪線「八尾」下車、西南約500M |
当山の創建は寺伝によれば、745年(天平17年)行基が開創し、聖武天皇の勅願所であった。
その頃は「新堂寺」と称していたが1390年(康応2年)足利義満が祈願所とし、『初日山常光寺』の扁額を寄せて以来、現山寺号を称している。本尊の延命地蔵は日本三地蔵の1つといわれ小野篁の自刻と伝えられる。南北朝時代には戦火で当寺の伽藍は灰となったが、1385年(至徳2年)藤原盛継が復興した。
1589年(天正17年)には豊臣秀吉から病気平癒祈祷料として、毎年五石の宛米の寄進を受けている。
大坂夏の陣では金地院崇伝の抱かかえ寺として保護され、徳川方の藤堂高虎がこの寺に陣を置き、大阪方の長宗我部盛親の軍と激戦に巻き込まれるなど、由緒あるお寺である。
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[参考資料] 『郷土資料事典』大阪府編 (株)人文社
『現地解説碑』 八尾市教育会編 |
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商店街をちょっとそれると、立派な山門が目に飛び込んで来た。 |
本堂と広々とした境内。毎年8月23・24日のには地蔵盆会があり、夜には盆踊りが盛大におこなわれる。
河内音頭発祥の地ともいわれている
先の財務大臣塩川正十郎氏の揮毫
による『河内最古之音頭発祥地』の
碑
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常光寺墓地にある1615年(元和元年)大坂夏の陣で戦死した藤堂高虎軍の71士の墓
藤堂高虎軍71士の顕彰碑。
1764年(宝暦14年)に戦死した
人々の子孫が建立している。 |
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1338年(暦応元年)病没した八尾別当顕幸の墓。
南北朝時代、顕幸が八尾城を本拠に南朝方についた
ため、当寺は兵火で焼失している。 |
森本行誓の墓。久宝寺支配の安井氏に対抗し、1607年(慶長12年)森本行誓ら17人衆は、八尾に大信寺(八尾御坊)を建て、八尾発展の基礎を作った。 |
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おおさか十三仏霊場 |
河内三十三ヶ所観音霊場 |
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[2003年9月11日参拝] |
[2003年9月11日参拝] |
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