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所在地:大阪市天王寺区城南寺町 「龍淵寺」境内
最寄駅:近鉄「上本町」下車、上町筋を北へ、上本町5丁目交差点を東に入り、二つ目の辻を北へ、右手にあり |
大塩の乱は指導者が町奉行所の元与力という直参の武士であり、窮民を救うための決起であったことが世間に衝撃を与え、乱後も「大塩死せず」のうわさが流れ、事件当時ばら撒かれた「檄文」も厳しい取締りにもかかわらず写し伝えられている。こうした世相の中で、大塩信仰ともいえる色々な
伝説が生まれ、世間に喧伝されていったものと思われる。
こうした大塩伝説の1つに「大塩逃亡説」がある。大阪市天王寺区にある「龍淵寺」には、大塩父子の逃亡を手助けしたという秋篠昭足(あきしの あきたり)の墓がある。
碑文(墓には漢文で書かれているが、傍には平易な文に訳した解説板が貼られていた)によると、
『秋篠氏は平八郎の縁者(戚属)で、天保8年の乱の謀議にも参加し、乱の後、平八郎および其の徒12人と共に河内に逃れ、その後、大塩父子ほか5人は海伝いに天草島に潜伏後、
清国に逃れ、大塩父子は更にヨーロッパに渡った。秋篠氏は後に長崎に帰国し、医業を行い、晩年は伊藤吉平と改名し、大坂に戻り84歳で病歿す。』と、ある。 昭足は1877年(明治10年)84歳で歿している。
この碑文の撰文は秋篠昭足の女婿で、文部省国史編修官専門的歴史家であった奥 並継が義父が生前に語っていた言葉を記録したもので、墓は並継の妻美喜(昭足の娘)が建てている。
この天草経由、ヨーロッパ逃亡説以外に、薩摩への逃亡説というのもあるらしい。
この話は、源義経が衣川で亡くなったのではなく、奥州から北海道に逃れ、更に大陸への渡り、あのモンゴル大帝国の基礎を築いたジンギスカンとなったという話とよく似ている。
これらの逃亡説は、どこまで、真実を語っているのかは不明であるが、これらの話が巷間、流布したのは正義観に燃え、時の為政者に反抗した大塩平八郎の行動を思うとき、大阪人としては、こうあって欲しいとの願望が大きく作用していると思われる。
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[参考資料] 『大塩平八郎ゆかりの墓』 現地説明板 |
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雲上山龍淵寺山門。お寺のある城南寺町の名が示すとおり、この町を挟んで、上本町、餌差町にかけ非常に沢山の寺院が軒を並べている。
本堂のある建物の壁
に狸の置物が所狭し
と置かれている。
狸に関係あるお寺な
のか、単なるコレクシ
ョンなのか、説明が見
当たらなかった。 |
秋篠昭足の墓はガラス張りのケースに入れられ保護されている。この墓は1890年(明治23年)に建てられているが、昭足の13回忌にあわせ建てたものと思われる。
同じケースの中に、頼山陽の母
方の祖父である飯岡義斎と義斎
の弟夫婦の墓が納められてい
る。
前列左側が飯岡義斎の墓。 |
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