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所在地:
大塩屋敷跡:枚方市尊延寺2丁目
最寄駅:京阪本線「枚方市駅」下車、バス「穂谷」行きで
「榁谷橋」下車、 |
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枚方市尊延寺の集落の中にも大塩平八郎は足跡をとどめている。尊延寺の集落は、枚方市の最北東部位置し、町の中心部を京都府京田辺市に抜ける国道307号線が通っている。
現在でも静かな佇まいの山村であるが、大塩の乱ではこの尊延寺村からは、守口村(現守口市)の191名、般若寺村(現大阪市旭区)の113名に次ぐ、111名にも上る取調べ者を出し、村の大半の家々が罪を問われたといわれる大事件であった。
この村の百姓の深尾才次郎は大塩平八郎の洗心洞の門下生で、かねてから平八郎に挙兵の計画を聞かされていた。
837年(天保8年)2月9日、才次郎は平八郎の挙兵を知ると、村の不動堂の奥之坊の鐘を打ち鳴らし、兄次兵衛宅に村人を集めて「両国筋から攻めのぼる者があり、大塩先生とともに一戦を交える。加勢して勝利しよう」と告げ、檄文を読みあげた。村人らが「尊延寺村」と書かれた幟をたてて出発したが才次郎との同行者は42名、残りは村の警備にあたった。
大坂へ向かう途中の守口あたりで、大塩の敗走を知り、自らも大和・初瀬から、能登・福浦へと逃亡したが逃亡先の能登で自害した。塩詰の死体は大塩父子ら20人とともに、首謀者の一人として市中引き回しの上、磔刑にされている。
兄の次兵衛や母のぶも捕えられ、取調べ吟味中に牢死しており、次兵衛、才次郎につながる多くの縁者も厳しく吟味された。
結果的には尊延寺の一揆は大塩の挙兵には間に合わなかったが、100人を超える村人が厳しい処分を受けた。また、才次郎の父の実家である奥野家も事件後、厳しい詮議を受けている。 |
深尾才次郎は大塩平八郎の支援者の1人であった守口の白井孝右衛門とは親戚関係(才次郎の従兄妹たつが孝右衛門の妻)にあり、このを孝右衛門通じて平八郎の門下生になったものと思われる。 |
[深尾家]
┌次兵衛(兄)── 小太郎
の ぶ(母) ├ち よ (姉:惣八妻)
├──┼き み(姉)
┌次兵衛(父)└才次郎
└(叔母) ──たつ
[白井家] │(夫婦)
孝右衛門 ─┼ 彦右衛門
└ 寅之助
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[深尾家]才次郎の父は奥野家よりの入婿
┌次兵衛(父) ─才次郎
│ ├ち よ(姉)
│[奥野家] │(夫婦)
└三郎兵衛(伯父)─惣八(従兄弟)
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[参考資料] 『地方史事典』 地方史研究協議会編 弘文堂
『枚方風土記』 枚方市企画調査室 |
大塩屋敷跡 |
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大塩の乱に参加した深尾治兵衛・才治郎の家のあった通称「正太郎屋敷」跡に建てられている石碑。
表には「大塩中斎遺跡 俗称大塩屋敷」とあり、裏面には「昭和47年6月21日(1972年) 深尾家建立」とあった。
大塩平八郎がしばしば当家を訪れているところから「大塩屋敷」と呼ばれたらしい。
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石碑は左の写真の奥の電柱の脇に建てられている。
「正太郎屋敷」は次兵衛の一子である小(正)太郎が家を再興したが昭和に入って絶え、現在は畑地になっている。
左の写真は道を挟んで石碑の前に植えられてあったシュロの木。樹齢はウン10年は経っている大きな木であった。 |
バス停から石碑のある北の方向に上って行くと、立派なお屋敷が何軒も目に飛び込んでくる。 |
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共同墓地に建つ深尾才次郎の墓 |
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村の共同墓地の一角に深尾家一族の墓がある。
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深尾家一族の墓の中に母のぶ、兄次兵衛、才次郎の共同墓が建てられている。左側の浄練居士と刻まれているのは才次郎の戒名という。明治に入ってから親族により建てられたものらしい。 |
枚方市春日元町に残る三軒門 |
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枚方市春日元町は古い家並みが現在も残されている地域であるが、上の写真はこの集落にある三軒門という珍しい門である。『枚方風土記』によれば、この門の奥には3軒の家があり、用心のため共同で門を作り、かっては夜間にはかんぬきをしたという。
門そのものは直接的には大塩の事件に関係ないが、この3軒のうちの1軒(奥野家)が才次郎と親戚関係(才次郎の父親は奥野家から婿養子に入った)にあり、大塩平八郎は守口の白井家から尊延寺の深尾家に向かう途中、しばしば当家に立寄り、止宿したという。そのためもあってか「大塩の乱」後、当家当主の三郎兵衛とその子惣八は厳しい吟味を受けている。 |