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所在地:
宗吉の墓:大阪市天王寺区上本町4丁目 「念仏寺」
絲漢堂跡:大阪市中央区南船場3丁目 |
橋本宗吉は江戸後期の町人蘭学者で、医学・天文学・電気学の研究、翻訳、実験等に取組み、日本における電気学の開祖といわれている。
宗吉は1763年(宝暦13年)北堀江に生まれた。(幼い頃に父と共に阿波より、大坂に移住したとの説もある)幼い頃から英敏で、極貧の中で勉学に励んだ。生来の才能である記憶力や理解力の良さが
間長涯、小石元俊らの目にとまり、1788年(天明8年)2人の援助で江戸へ出て大槻玄沢に師事、蘭学を学んだ。数ヶ月でオランダ語を4万語を覚えたという。宗吉は4ヶ月ほどで大坂に帰り、スポンサー2人のために原書の翻訳を精力的に行っている。
1796年(寛政8年)に医業を開始、享保年間に堂寺町五丁目に蘭学塾「絲漢堂(しかんどう)」を開いた。
後に車町に引越している(現中央区南船場:現在「絲漢堂跡」の碑が建っている)。
医業ではさほど振るわなかったが、蘭学者としては門下生に斎藤方策、各務文献、伏屋素狄、大矢尚斎、藤田顕蔵、中天游などを輩出した。(橋本宗吉−中天游−緒方洪庵−福沢諭吉とその系統は続いている)
晩年は門人の藤田顕蔵が大塩平八郎のキリシタン教徒の取締りで逮捕され、そのあおりで、蘭学研究を停止せざるを得なくなり、生活は中天游によって支えられるほど窮乏したという。彼が没したのは1836年(天保7年)73歳であった。
主な著書には、近代的意義における薬品製造を最も早く記述し、最初に西洋医科学を体系的に我が国に紹介した紹介書として高い評価を得ている『蘭科内外三法方典』や、エレキテルを科学的に初めて実験し、この日本初の学術的電気実験を元に著した『阿蘭陀始制エレキテル究理原』がある。
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[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社 |
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念仏寺は1580年(天正8年)僧大誉の創建である。上町筋に面して山門がある。
南隣に住友一族の墓がある実相寺がある。 |
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境内にある『蘭学者橋本宗吉先生墓所』の碑。 |
宗吉の墓は天満の龍海寺にあったといわれるが、現存せず、1926年(大正15年)に「曇斎顕彰会」が新しく建て直している。
科学技術関係の書籍を出版するオーム社の社歴の中に「1926年橋本曇斎の墓を大阪天王寺念仏寺に建立」とあり、社歴に載せるぐらいだから、「曇斎顕彰会」は該社が中心となって活動したと思われる。 |
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大阪市中央区南船場にある「絲漢堂跡」の碑。
大阪きっての繁華街である心斎橋筋の延長線である「心斎橋筋北商店街」の一角にあり、人通りは大変多いが、この石碑に関心を持ち立ち止まる人は皆無である。 |