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所在地:和泉市石尾 万町共同墓地
最寄駅:泉北高速鉄道「和泉中央」下車、
伏屋素狄顕彰碑
所在地:大阪市西区 |
和泉国池田郷万町村(現和泉市万町)の伏屋(ふせや)は中世以来の土豪で1674年(延宝2年)には池田郷総代を務めている。
伏屋のもとには延宝2年頃から数年間、国文学者の契沖が寄寓しており、この間1676年(延宝4年)には『正字類音集覧』を完成させている。
この時の伏屋の当主は伏屋重賢で、契沖を自宅内の養寿庵に住まわせ、伏屋家の蔵書で国文学の研究に当たらせた。養寿庵は後に大坂に移され円珠庵となった。
伏屋重賢は1638年(寛永15年)生まれ、祖父の伏屋飛騨守一安は豊臣秀吉の家臣であたっと伝えている。文化人であった重賢は、契沖と交流のあったほか、1674年(延宝2年)西山宗因を案内して高野山に詣でている。1693年(元禄6年)56歳で没した。
伏屋素狄(そてき)は江戸後期の蘭法医で、1747年(延享4年) 河内日置荘(現堺市)の生まれ、14歳のとき伏屋氏の分家に養子となった。
漢方医学を学び、堺で開業。後に大坂に移って、橋本宗吉の門に入り洋学を学んだ。生理学上の動物実験をくりかえして『和蘭医話』を著した。腎臓に墨汁を注入した実験で、「腎臓は血液中より、尿をろ過する働きを持つ」ことを実証したが、この成果はヨーロッパの学者よりかなり早い業績であった。
1811年(文化8年)11月、65歳で没した。
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[参考資料] 『大阪墓標人物事典』 近松譽文編 東方出版(株)
『日本歴史地名体系(大阪府編)』 平凡社 |
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伏屋家一族の墓。
伏屋重賢や素狄の墓は間違いなくこの一群の中(右側の写真の五輪塔の中の可能性が大きい)にあると思われるが、殆どの墓は表面が風化し、刻まれてあった文字が消えてしまっており、判読が出来なかった。 |
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伏屋素狄が建立した「伏屋遠祖」の墓。 |
表には「伏 政芳、素狄建之」とある |
和泉市万町に現存する伏屋屋敷 |
和泉市万町の集落の中に伏屋の屋敷の一部が現存し、かって契沖が住んだ養寿庵の跡地は大阪府の史跡に指定されている。この養寿庵は後に大坂に移され円珠庵となった。 |
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上の写真:長屋門と土塀。奥の電柱の近くに石標がある。
右の写真:史跡の石標(左)と契沖の歌碑(中央)が建てられている。 |
大阪市西区和光寺境内あみだ池のほとりに建つ「伏屋素狄顕彰碑」 |
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「伏屋素狄顕彰碑」は日本医師学会・日本生理学会発起、日本医師会賛助で、1967年(昭和42年)の建立。
碑文の中で「墓が失われたから、ゆかりの地に近い北堀江のあみだ池和光寺に碑を立つ」とあり、素狄の墓は既になくなったとしている。 |