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霊場参拝
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今里・妙法寺へ
雪光山圓珠庵 所在地:大阪市天王寺区空清町
最寄駅:JR環状線「玉造」下車、玉造筋を南へ、バス停「真田山」を西へ、「六大院」の交差点を挟んだ向かい側
当山の創建は1690年(元禄3年)国文学者として有名な契沖が「鎌八幡」に居を構え、「圓珠庵」と称したことに始まるが、この辺りは古来、三韓坂と言われた古道でその脇にあった榎木の樹霊信仰の場であった。下って、大阪冬の陣のとき、真田幸村がこの地一帯に陣地(真田出丸)を構えたが、この樹霊に鎌を打ちつけ戦勝祈願をされたといわれ、以来、人々は「鎌八幡」と呼び、世に広く信仰を得るようになったという。
 契沖はここ「圓珠庵」で「和字正濫鈔」(わじしょうらんしょう)など多くの著述を成し、1701年(元禄14年)、62歳で没した。
 境内の墓地には契沖の墓とともに親交の厚かった下河辺長流(しもこうべながる)の墓がある。
1922年(大正11年)、境内全域が大阪市では最初の史跡指定を受けたが、境内の大部分は戦災で損壊した。現在の堂宇は戦後に復興したものである。

契沖は、本姓下川氏。尼崎藩士下川元全の子として1640年(寛永17年)尼崎で生まれる。11歳で大阪今里の「妙法寺」に入り、13歳の時に剃髪、高野山で10年間仏教を学んだ後、23歳で大阪生玉の「曼陀羅院」の住職となる。しかし、数年を経ずに「曼陀羅院」を去り、諸国修行の旅に出、30歳の頃に和泉の国に移り住む。
最初の5年間は久井村の辻森家に滞在、仏典や漢籍に親しみ、その後南池田村万町の伏屋長左衛門(重賢)方に移り、その邸内に養寿庵という小庵を建ててもらいそこで、和漢書の研究に精励した。
40歳のとき、再び今里の「妙法寺」に戻り、住職となった。この「妙法寺」時代に、徳川光圀の知遇を得、画期的な万葉注釈書『万葉代匠記』を執筆、その後の国学万葉研究に大きな影響を与えた。
(大阪・中之島図書館ホームページにより抜粋)

下河辺長流は、本姓小崎氏。大和滝田の人、生年不詳。大和小泉藩に仕えた。洛西の木下長嘯子を訪ね歌の添削を乞い、師弟関係を結んだ。大和小泉藩を致仕した後、母方の下河辺を名乗る。
1651年(慶安4年)来坂し、西山宗因に連歌俳諧を学ぶ。万葉集を筆写するため1655年(明暦5年)ごろから14年間、三条西家に仕えた。後、江戸に出て歌道をもって仕官を志すが失敗、大坂に戻り、以後「万葉集」の研究に専念した。晩年、水戸光圀から招かれたが応じず、求められた万葉集の注釈は契沖を推挙した。
著書に「万葉集菅見」、「枕詞燭明抄」、「林葉累塵集」など。1686年(貞享3年)没。

[参考資料] 『摂津国八十八ヶ所霊場案内記』 古寺顕彰会発行
         『鎌八幡と圓珠庵』 圓珠庵パンフレット
圓珠庵山門 通りに面した山門、左手に「史跡契沖旧庵並びに墓」の碑がある。当山は境内の写真撮影は一切禁止とのことで、撮影出来たのはこれ1枚のみである。
ご朱印
摂津八十八ヶ所霊場
圓珠庵朱印
[2003年10月5日参拝]

[2003年10月5日参拝]

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